2012.03.11

震災から1年。福島ユナイテッドFC、残された者たちの闘い

  • 矢沢彰悟●取材・文 text by Yazawa Shogo
  • photo by Yazawa Shogo

震災後の不安を乗りこえ、福島ユナイテッドの選手たちはJFLに向けた闘いを続ける/写真提供●福島ユナイテッドFC
 4月3日。福島にチームの選手、スタッフが集合した。7人がチームを去っていた。残ったのは紅白戦すらもできるか否か、という人数。退団したうちの3人は、後ろめたさを感じつつも別の地へ移籍を果たした。だがあとの4人は引退を余儀なくされた。当然、志半ばにして道を閉ざされた無念はある。どのような道に進むのであれ、チームを去った7人には心にずっと引っかかる刺(とげ)ができてしまった。

 FIFAのオフィシャルスタッフでもある福島ユナイテッド運営本部長・鈴木英寿は言う。

「とりあえず(ベンチ入り規定人数である)18人以下というワーストケースは回避できた。でもやはり彼らはプロじゃないから。プロは成果と報酬の世界だけど、彼らは本当に気持ちでやってる。本当に好きじゃないとできないですよ。好きなサッカーで夢を……っていう選手もいれば、ただただ好きでサッカーやってる選手もいる。それでは”残れ”などと強制はできない。でもこれだけのメンバーが残ったってことは、このチームがまだ生きてる証拠ですよ」

 結局、賛否両論あったが、延期されていたリーグ戦は2011年5月15日に開幕されることとなった。ただし、放射能の心配がある福島県内での試合は開催されず、福島のチームは代替地でホームの試合を開催する運びとなった。

 そうなると当然、毎回の遠征費などでチームにかかる負担は大きくなる。また”敵地でのホーム戦”の開催に必要な運営ボランティアも集まりにくい。このような事情も影響して、2011年度は福島からは1部と2部合わせて6チーム中、5チームがリーグ参加を辞退した。参加を決めたのはユナイテッドだけだった。

「それでも闘おう」
 多大な負担は承知の上での決断だった。

 だが元々の地力の差もあり、ユナイテッドはリーグ戦で破竹の10連勝。11勝1敗で東北リーグ初優勝を果たし、福島県出身の時崎悠監督の言葉を借りれば「JFL昇格をかけ、それぞれの選手が己の人生を懸けて闘う場」である、全国地域決勝リーグへの舞台へと2年連続で駒を進めた。

「でも実際は去年震災があって、その後放射線の影響はあったけども気にしなければ気にしないで、一昨年とかその前の年とかと、ただ選手層が薄いだけで何も変わらない状況だったので。なので自分にとってはある意味、試合に一昨年以上に出られて、前任の手塚監督のもとで出させてもらったので、すごく前進したというか、飛躍した年だったのかなと。ゴールも一昨年と比べたら全然取れましたし」

 そう語るのは、FW時崎塁だ。現監督・時崎悠の実弟である。当然、最初は不安の中でスタートしたシーズンだったが、選手としてはやはり試合に出ることは大きなモチベーションになる。一昨年ほとんど試合に出ることができなかったためか、ピッチに立つ喜びが震災後の不安を少し上回っていたようだ。

 もちろん、塁も震災のことを忘れていた訳ではない。こんな時だからこそ少しでも福島にいいニュースを、という気持ちもあった。

「一昨年と比べればJFLへの思いは間違いなく強かったですね。地震があって、こういうときだからこそっていう思いもありましたし。こういうときに何か形で残したい、成し遂げたいって気持ちも強くなった」

 放射能という見えないものに対する不安よりも、目の前にある試合に出て点を取る。その現実のほうが塁にとっては大切だったのかもしれない。