中村憲剛&佐藤寿人が語る、オシムとザッケローニ。「人生で初めて監督に直談判しに行こうと思った」 (2ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei
  • photo by AFLO

 それでもなかなか呼ばれなかったし、メディアの方たちにもそこに関していつも質問されたりして......。自分が決められることじゃないので、その質問をされることに少しイライラしてました(苦笑)。オシムさんじゃなくて、メディアにみなさんに対してですね(苦笑)。初めて入れたのは、10月のガーナ戦でした。

佐藤 あの試合、僕はスタメンでしたね。3トップの右で。

中村 あったね。佐藤寿人サイド起用問題(笑)。僕はベンチスタートだったけど、生まれて初めて日の丸をつけて、君が代を歌ったことは今でもはっきりと覚えていますね。

 あの時の横浜は満員じゃなかったですけど、僕のなかではあんなに観衆の入った会場でプレーするのは初めてだったので、途中から出た時はそうとう緊張しました。でも、ファーストプレーのFKでいいボールが蹴れてからは緊張が解けていいパフォーマンスができたので、上々のデビュー戦だったと思います。

佐藤 そこから4年ですからね。僕は結果的にワールドカップの舞台にはたどり着けなかったですけど、長かったですよね。

---- 4年の間には監督が代わるというアクシデントもありました。

中村 オシムさんから岡田さんになった時の切り替えが大変でしたね。チームとして右肩上がりでよくなっていたなかで、オシムさんが倒れてしまいましたから。

 岡田さんも大変だったと思います。当初はオシムさんのやり方を継承していた部分もあったけど、徐々に自分の色を出していくなかで、オシムチルドレンがだんだんといなくなっていって......。個人的にはオシムさんのサッカーが本当に楽しかったから、寂しい想いはありましたよ。

佐藤 それまで、代表の監督が途中で代わることってあまりなかったじゃないですか。あの時は病気でしたけど、途中で代わることで選手にもだいぶしわ寄せがきますよね。

中村 クラブとは違うから好きな選手を呼べるけど、その責任は自分が取らないといけない。だから自分が信じた選手でやるのは監督として当然なんです。それは岡田さんのあとのザッケローニの時にも感じましたね。もう、自分の力ではどうしようもできないということもあるのかな、と考えさせられた監督でした。出番がくると思った時に、こないことが何回もあって。

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