トルシエが明かす日韓W杯メンバー選考の真相「中村俊輔を外すことにためらいはなかった」 (2ページ目)

  • 田村修一●取材・文 text by Tamura Shuichi
  • photo by Kyodo News

「森島寛晃や西澤明訓、三都主アレサンドロ、小笠原満男らは試合を終えるための選手であり、交代要員となることを認めた選手たちだった」

 そして、第3の基準。この基準で選ばれた選手たちこそが、「チーム作りのカギだった」とトルシエは語っている。

「リストの最後にくるのが、プレーの機会がほぼない選手だった。彼らがグループのなかで最も重要だったのは、出場機会はなくとも、グループを維持していく役割が課せられていたからだ。

(チームの)雰囲気が悪くならないように、引き締めて緊張感を維持する。同時に(チーム内を)適度にリラックスもさせる。

 だからたとえば、中澤佑二ではなく、秋田豊を選んだ。もちろん中澤は、秋田に代わってグループに入る力を持っていた。しかし中澤はまだ若く、パーソナリティの面で彼がグループにもたらすものは少なかった。

 中山雅史を選んだのも同じ理由だ。彼はチームの雰囲気を盛り上げ、選手たちを安心させることができる貴重な存在だった」

 彼が23人のリストを固めたのは、オスロでノルウェーに0-3と敗れた試合(2002年5月14日)のあとだった。

 W杯イヤーに入ってからの日本は、ウクライナ(ホーム)とポーランド(アウェー)を破り、コスタリカ(ホーム)とは引き分け。キリンカップではスロバキアに勝って、ホンジュラスとは引き分けた。

 安定はしていたものの、前年のコンフェデレーションズ杯(準優勝)やイタリア戦のような、見るものにカタルシスを与えるパフォーマンスを発揮したわけではなかった。

 そうして、5月に行なわれたヨーロッパ遠征では、クラブ創立100周年を祝うレアル・マドリードに招待された記念試合で0-1と敗れ、直後のノルウェー戦は0-3と完敗。釈然としないまま、テストマッチのシリーズを終えようとしていた。

 トルシエは当初、2001年末のイタリア戦のグループのなかから選べると考えていた。

「(イタリア戦を終えて)23人はすでに、私とともにあると確信していた。実際に本大会に連れていくのは24~25人になるかもしれないが、グループは出来上がっているという思いは強かった。23人はすでにここにいる、と」

 だが、ノルウェー戦の直後に彼が感じたのは、グループに何かが欠けているということだった。

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