トルシエが振り返る日韓W杯。2001年11月のイタリア戦で「W杯を戦うチームは出来上がっていた」

  • 田村修一●取材・文 text by Tamura Shuichi
  • photo by REUTERS/AFLO

 以下はイタリア戦に招集したメンバーである。

【先発メンバー】GK曽ヶ端準、DF宮本恒靖、森岡隆三、中田浩二、MF波戸康広(74分OUT)、戸田和幸、稲本潤一(75分OUT)、小野伸二(69分OUT)、森島寛晃(46分OUT)、FW柳沢敦(67分OUT)、高原直泰(46分OUT)
【控えメンバー】GK南雄太、DF大岩剛、服部年宏(69分IN)、MF伊東輝悦(75分IN)、奥大介、中田英寿(46分IN)、明神智和(74分IN)、中村俊輔、FW中山雅史(87分IN)、鈴木隆行(46分IN)(87分OUT)、西澤明訓(67分IN)

 当時、トルシエは「チームが出来上がった」と語っているが、W杯本番を戦った23人とはかなり顔ぶれが違うことがわかる。

【日韓W杯/日本代表メンバー】GK川口能活、楢崎正剛、曽ヶ端準、DF秋田豊、松田直樹、森岡隆三、中田浩二、宮本恒靖、MF稲本潤一、服部年宏、中田英寿、森島寛晃、三都主アレサンドロ、福西崇史、小野伸二、小笠原満男、明神智和、戸田和幸、市川大祐、FW西澤明訓、中山雅史、鈴木隆行、柳沢敦

 イタリア戦後、いったい何が起こっていたのか。

「イタリア戦のグループでは、大岩や波戸、中村、伊東、高原、奥、南といったW杯を戦わなかった選手もいた。だが、代表チームは11人だけで成り立っているのではない。この時点で、確固とした代表が存在していたことは事実だ。

 プレーするのが大岩だろうと、松田だろうと、また波戸だろうと、市川だろうと、さらに言えば中村だろうと、小野や奥、小笠原であろうと、私にとっては何の問題もなかった。代表は選手が問題なのではない。私は自分のやり方で、ふたつの代表チームをプレーさせることも可能だった。

 だから、左のアウトサイドに置くのが小野だろうと、中村や三都主、服部であろうと、右アウトサイドが波戸でも明神でも市川でも、そしてボランチは稲本だろうと、戸田や伊東、福西であろうと、何ら問題はない。私が望んだのは同じプロセスだった。

 大会7カ月前にして、私は20数人の選手が、私が望むようにプレーできるようになったと確信が持てた。それが、私のメソッドであり、私のメソッドは特定の選手に依存しない。常にコレクティブなもので、オーガニゼーションでありコレクティブなメカニックだ」

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