山本昌邦が振り返る20年前の長い夜。2002年日韓W杯の日本代表メンバーはこうして決まった (3ページ目)

  • 浅田真樹●取材・文 text by Asada Masaki
  • 佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki

 はたして、"サプライズ選出"が"納得の選出"に変わるまで、さほど時間はかからなかった。

「本当に彼らはいい仕事をしてくれました。そもそも自分は落選すると思っていたところから選ばれているから、(日本代表に)来た時のモチベーションがすごかったです。

 結局、強いチームを作るためには、サッカーの技術、戦術だけでなく、それにプラスして結束できる力が必要で、中山のようにベンチにいても『いつでも100%でピッチに行くぜ!』みたいな選手は重要なわけです。

 彼らは(前回大会で)ワールドカップの悔しい経験もしているので、若い選手の相談役にもなれる。いわば、彼らが最後のピースでした」

 世間を驚かせた、20年前のサプライズ選出。山本は、それを事前に知っていたわずか5人のうちのひとりだったことになる。

 しかしながら、メンバー選考の最終決定権は、実のところ、トルシエ監督ひとりに委ねられていた。

 ノルウェーでのスタッフ会議のあと、トルシエ監督は本大会で対戦するベルギーの試合を視察するため、日本に帰国するチームと離れ、フランスへ移動。最終的なメンバー23人は公式発表時間の30分前に、トルシエ監督から日本協会スタッフにファックスで伝えられることになっていた。

「議論をし尽くして選んだメンバーでしたが、トルシエ監督が最後の最後に『やっぱりオレはこう考えて、この選手を入れると決断した』ということもあるかもしれない。そんなことをまったく考えなかったわけではありません。それは監督の権限だし、僕自身は全然ありだと思うから。

 なので、僕もテレビの前で固唾を飲んでメンバー発表を見ていました」

 さて、答え合わせの結果やいかに。

「会議で決めたメンバーと変わっていませんでした。『オレたちも案外、信用されているんだな』って思いましたね(笑)」

(文中敬称略/つづく)

山本昌邦(やまもと・まさくに)
1958年4月4日生まれ。静岡県出身。国士舘大学卒業後、JSLのヤマハ発動機(ジュビロ磐田の前身)入り。DFとして奮闘した。29歳の若さで現役を引退。指導者の道に進んだ。とりわけ、協会のナショナルコーチングスタッフとして手腕を発揮。U-20代表のコーチ(1995年、1999年U-20W杯※当時ワールドユース)、監督(1997年U-20W杯)、五輪代表のコーチ(1996年アトランタ五輪、2000年シドニー五輪)、監督(2004年アテネ五輪)、A代表のコーチ(2002年W杯)を歴任。すべての世界大会に出場という、輝かしい成績を残した。現在は、指導者、解説者として奔走。

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