【日韓W杯から20年】熱狂の2002年ワールドカップ。日本の4試合は「ヨーロッパの下部リーグのような試合だった」 (2ページ目)

  • 西部謙司●文 text by Nishibe Kenji
  • 六川則夫●撮影 photo by Rokukawa Norio

トルシエ監督の明

 日韓W杯の4年前、日本にはフィリップ・トルシエ監督が就任していた。その言動は物議を醸し、賛否両論ある監督だったが、少なくとも見通しの正しさはベルギー戦で証明されていた。

 フラットスリーと呼ばれた極端に浅いライン、コンパクトネス、その狭いなかでのフィジカルコンタクト......。トルシエ監督は「日本人は体格が小さい」というエクスキューズを受けつけなかった。たとえ不得意だろうが、コンタクトを避けていたら試合から蹴り出されるだけ。その現実を早い段階から選手たちにつきつけている。

 体格の大きいベルギーを相手に、日本はコンタクトで優位とは言えないまでも十分に渡り合えていた。柳沢敦は出色。はるかに背の高いDFとの空中戦を制し、縦にロングボールを入れるだけの単調な攻撃でも何とか形になりそうだったのは柳沢の身体能力が大きい。

 戸田和幸の奮闘もすばらしかった。イエローカード3、4枚相当のファウルも含め、体を張って中盤を支えていた。

 この時のベルギーは現在と違って非常に守備的だ。日本のフラットラインの外に張ってオフサイドぎりぎりで受け、間髪入れずクロスボールを放り込む攻撃はよく日本を分析していたが、いかんせんゴール前の人数が足りない。

 それでも57分に先制した。スローインのクリアを拾って裏へ、オフサイドぎりぎりで飛び出したマルク・ヴィルモッツが決めている。

 2分後、小野伸二がディフェンスラインの背後に柔らかく落としたボールに鈴木が反応。2人のDFの間をすり抜けながら足を伸ばして当てたシュートは、前進したGKの虚を突いてゴール。

 小野は左ウイングバックに起用されていた。中盤中央はつぶし合う場所にしかならないと、トルシエ監督は考えていたのだろう。プレーメーカータイプの選手を主に左サイドに配置するのが定番だった。

 68分、稲本潤一が鋭いプレスでボールを奪い、柳沢へ預けて前へ。柳沢のパスを受けてひとり外して左足を一閃、2-1と逆転に成功する。プレスの勢いを攻撃に転換した得点もトルシエ監督が狙っていた形のひとつだった。

 しかし75分、唐突にベルギーが2-2に追いつく。経緯は1失点目に似ていて、日本のクリアボールを拾ってライン裏へ落とし、オフサイドぎりぎりで抜け出たペーター・ファン・デル・ヘイデンが決めている。日本はフラットラインの弱点を露呈した形だった。

 85分、稲本が群がるベルギーDFを全滅させてゴールしたが、これはファウルがあったとして認められず。2-2で日本とベルギーは1ポイントを分け合った。

 つぶし合いの最中、瞬間的なワンプレーで4つの得点が決まった。4年前とも4年後とも違う日本代表のスタイルは当時のスタンダードのひとつではあるが、振り返ってみれば強化の一貫性のなさの表れともいえる。

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