ロシアW杯は直前の監督交代が奏功。あの時、なぜハリル解任を強硬に主張したのか (2ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • photo by JMPA

【なぜハリルホジッチだったのか】

 2010年南アフリカW杯終了後、時の原博実技術委員長は、攻撃的サッカーという概念に基づき、代表監督探しを開始。何人かリストアップしたなかからアルベルト・ザッケローニを招聘した。協会があるコンセプトに基づいて代表監督を探したのはこれが初だった。世界の慣例に従えば常識的な方法ながら、日本のサッカー史に照らせば画期的。日本サッカーのレベルアップを象徴する出来事だった。

 しかし、ザッケローニは実際に采配を振ってみると、思いのほか攻撃的ではなかった。先進的とも言えなかった。その反省が次の監督選びには活かされたかに見えた。2014年8月、代表監督に就任したハビエル・アギーレは、コンセプトに適合した監督であるかに見えた。就任半年後にオーストラリアで開催されたアジアカップでは、準々決勝でUAEにPK戦負けしたものの、攻撃的サッカーのコンセプトに則った、協会の思惑と一致するようなサッカーを展開した。

 ところが、そのアギーレ監督の身の上に、スペインのサラゴサ監督時代に巻き込まれたとされる八百長疑惑が発覚。協会はアジアカップ後の2015年2月、アギーレとの契約を解除した。その後任の座に就いたのがハリルホジッチだった。

 専務理事に昇格した原博実氏と、その後任として技術委員長の座に就いていた霜田正浩氏が、その招聘に当たったとされるが、ふたりはハリルホジッチのサッカーをどこまで把握していたのだろうか。周囲から日程面をせっつかれた妥協の産物ではないかとは、こちらの見立てだが、彼は攻撃的サッカーの概念から、ザッケローニ以上に外れた監督だった。

 縦に速い球離れのいいサッカー。よく言えばそうなるが、後方から前戦へ縦蹴りすることをいとわない、1対1の競り合いを意味する「デュエル」を強調した、フィジカル的なスタイルを愛好した。その昔、来日するや、何の前触れもなく「フラット3」を始め、こちらを驚かせることになったフィリップ・トルシエを想起した。来てみてビックリさせられたという点で両者は一致する。1998年の時点ではそれも仕方がなかったかもしれないが、2015年になってこの有様では、招聘に当たった人の責任を追及したくなる。

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