2022.01.13

三浦知良、衝撃の日本代表落選。98年、初出場のW杯イヤーに何が起きていたのか

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • 山添敏央●写真 photo by Yamazoe Toshio

【本大会を前にシステムを変更】

 W杯開催国フランスに向けて旅立った日本代表は、現地で事前合宿を行なった。その最終段階で、カズはふるいに掛けられ、あえなく帰国するハメになった。少し前まで、日本代表でエースの看板を背負っていた選手が、大会前に現地をあとにする姿は、実際、哀れを誘った。筆者にはそれがリスペクトを欠く判断に見えた。フランスに向けて出発する段で外しておくべきだった、と。当時、41歳だった岡田監督。若さ、経験不足を露呈させたように見えた。

 中国に0-2で敗れた日本は翌4月、韓国と再び対戦した。アウェーでの親善試合だったが、ここでも1-2で敗れてしまう。すると岡田監督は、国内で行なわれた最後の試合(パラグアイ、チェコを招いての親善試合)で、中盤ダイヤモンド型4-4-2だったそれまでの布陣を3-4-1-2に一変した。

 岡田監督は、日本代表監督として2度目のW杯に臨んだ2010年南アフリカ大会でも、直前にスタイルを大幅に変えている。突如、本田圭佑を0トップに据えて戦ったことは記憶に新しい。それをベスト16入りの原動力としたが、98年フランス大会前の変更は奏功しなかった。

 当時の岡田監督が、3バックを守備的だと認識していたことは、そのコメントの端々に表れている。守備を、後方に人数をかけて守ることだと定義していた。強豪相手にはそうしなくては耐えられない、と述べていた。

 しかし、岡田監督は加茂前監督に仕えていた前コーチだ。加茂前監督と言えばゾーンプレス。日本で最初にプレッシングを唱えた指導者である。うしろではなく前から守ろうとするサッカーだ。それをプレスがかかりにくいブラジル式4バック=中盤ボックス型の4-2-2-2で実践しようとした点に、行き詰まった原因があった。解任された原因のひとつと見るが、それを引き継いだ岡田監督も、同様の症状に陥った。

 中盤ダイヤモンド型の4-4-2。4分割表記(当時は存在しなかった)で表せば、4-3-1-2となる。これもプレスがかかりにくい、サイドで数的不利に陥りやすい布陣だ。ひと言で言えば、戦術と採用する布陣の不一致ということになるが、その反省からだろうか、2010年南アフリカ大会直前に行なった変更は的確だった。岡田監督のなかで、1998年フランス大会時とは守備の概念が変わっていたことは確かである。