トルシエが語っていた「最強」シドニー五輪代表の実像。「中田英寿は特別だった」 (2ページ目)

  • 小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki
  • photo by AP/AFLO

 南は41歳になってもJ1でプレーし続け、それはひとつの成功と言っていいだろう。シドニー世代には、代表メンバーから外れても、各ポジションにJリーグを代表するようなキャリアを送った選手がいる。

「トルシエのシドニー五輪候補には選んでもらいましたが、自分はそのメンバーの中で明らかに一番劣った選手でした」

 そう語った古賀正紘も97年のワールドユースメンバーで、シドニー五輪世代だ。古賀は名古屋グランパス、柏レイソル、ジュビロ磐田、アビスパ福岡と19シーズンに渡って、カップ戦も含めると500試合近くに出場した。

「マツさん(松田直樹)は高校時代からのあこがれで風格があったし、自分は足元にも及びませんでした。中澤(佑二)さんのことを周りで低く評価する人がいたけど、自分には信じられなかった。初めて見た時から、"ヘディングは敵わない"と思わせる絶対的な武器を持っていたから。自分は、"どこが(他の選手に)勝てんのかな"ってずっと自問自答していましたね」

 シドニー五輪は、素材だけで言えば最強だった。

 しかしながら、実際に世界と対等に戦えていたのは、すでにセリエAのペルージャで鮮烈なプレーを見せ、ローマに所属していた中田英寿だけだったかもしれない。他は全員が、Jリーグのクラブに在籍。優れた才能も、揉まれ、洗練されていなかった。

「私は"ラボ"に様々な選手を呼んだ。優れた素材は多かったが、パーソナリティを発揮して勝負を決められる選手は少なかった」

 かつてトルシエにインタビューした時、彼はシドニー五輪当時を思い出し、そう洩らしていた。

「当時はまだ、海外でプレーする選手がほとんどいなかった。中田(英寿)はすでにイタリアで活躍し、カリスマ性を持っていた。私としては、日本が世界で戦うためには、中田のような選手をもっとたくさん求めていたのだが......。当時はまだ彼が欧州で道を拓いたばかりで、特別な存在だった。はっきり言って、中田はテクニックもメンタリティも日本人離れしていた」

2 / 3

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る