鮫島彩が語る10年前のなでしこW杯優勝。絆を深めた「恐怖」のミーティング (4ページ目)

  • 取材・文・撮影●早草紀子 text&photo by Hayakusa Noriko

 そんな守備を築いていた鮫島を起用した当時の佐々木則夫監督について聞いてみた。

「実は、チームメイトに認めてもらうことに必死で『則さんはこういう監督だ』みたいなところまで、当時は気持ちが追いついていなかったんですよね。ただ、その後いろんな監督とサッカーをしてきて思うのは、則さんの人の活かし方、人心掌握術はすごいということ。私をサイドバックにコンバートしたのも則さんなので。ただ、ひとつ言えるのは、結局則さんは"持っている"ってことでしょうか(笑)。

 みっちょん(川澄奈穂美)があの大会で大活躍したり、(丸山)桂里奈さんがドイツ戦で決勝ゴールを挙げたり、そこに起用するんですから閃きがすごいです。あと(劇的な試合を生んだ)トーナメントの組み合わせもそう。とにかく持っているんですよ。それじゃないと何度も盛り上がるタイミングが訪れたことに説明がつかないですよね」

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 選手、監督、スタッフすべてのバランスがベストに保たれていたからこそ頂点まで登りきることができたのだろう。10年という月日を経ても今なお彼女の中で記憶は色あせていない。

 鮫島にとって2011年ワールドカップ優勝とは----。

「自分がサッカーをする上ですごく大切なのが"人"。スタッフも含めてあのメンバーだったから優勝できた。全力で、必死で。あのサッカーを思い返すと、いつサッカーを辞めてもいいかなって思うくらい満たされちゃうんです。それくらいの経験だった。結果というよりはその"縁"というのが自分の人生にとってすごく大きくて、その後のすべてのスタートだったと思います」

 2011年に始まり、その潮流を感じながら佐々木監督や、ともにムーブメントを起こしたメンバーと戦ったその後の5年間は、今の鮫島を形作る上で至要たる年月だった。

 現在、高倉麻子監督率いるなでしこジャパンで鮫島が後輩選手たちに示している姿には、当時鮫島自身が感じ取っていた先輩像が見え隠れする。"仲間"を想うことで生まれたあの大会のサッカーを鮫島が引き継いだように、下の世代にも引き継がれることを切に願う。

(後編につづく)

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