2020.10.22

ちょうど20年前、「史上最強」と
称された日本代表を知っているか?

  • 浅田真樹●取材・構成 text by Asada Masaki
  • 佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki

 そこで、日本代表は、シドニー五輪での準々決勝進出が決まった時点で、コーチのサミアだけをひと足先に帰国させ、アジアカップの直前キャンプに備えることになった。

 もちろん、シドニー五輪との兼ね合いが難しかったのは、日程だけの単純な話ではない。

 ふたつのビッグイベントを掛け持ちすることになった選手にとっては、事前の準備キャンプを含めるとおよそ2カ月間、海外での合宿生活が続く。その間ずっと気持ちを切らすことなく、緊張感を保ち続けるのは簡単なことではなかった。

 シドニー五輪で全4試合にフル出場したあと、すぐさまアジアカップへと向かった、明神智和が振り返る。

「五輪が終わって、すぐに代表合宿からのアジアカップ。五輪疲れというか、遠征疲れみたいな感じで、体よりもメンタル的な部分で最初のほうは難しかったです」

 このとき、アジアカップの一次登録メンバー30人は、シドニー五輪前に発表されていた。つまり、明神はそれを知ったうえでシドニー五輪に出場していたはずである。ところが、「そのあたりの記憶がないんです」と明神。

「僕自身はシドニー五輪ですべてを出すことだけを考えていたので、アジアカップのことはまったく頭にありませんでした」

 当時はまだ、アジアカップへの世間の関心が高いとは言えず、それとは比較にならない大きな注目が、シドニー五輪に集まっていた頃である。後者に大きく意識が傾いていたのは、決して選手ばかりではなかっただろう。

 明神は日本代表に選ばれることの名誉を感じてはいたが、同時に「1カ月、オーストラリアに遠征して、また1カ月レバノンか......って、そういう気持ちは、正直ありました」と苦笑まじりに明かす。

 結局、幸か不幸か、日本はシドニー五輪で準々決勝敗退。10月1日、日本で待つ年長組13人(負傷から復帰した小野伸二を含む)に、オーストラリアから戻ったばかりのシドニー組9人(オーバーエイジで出場の森岡隆三、三浦淳宏を含む)が合流することができた。