2020.10.22

ちょうど20年前、「史上最強」と
称された日本代表を知っているか?

  • 浅田真樹●取材・構成 text by Asada Masaki
  • 佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki

 だが、その一方で、「(自分は)U-16、U-19、五輪代表と、すべてのカテゴリーでアジア予選を突破できなかった。アジアで勝つってことがどれだけ難しいか。それは十分に理解していましたよね」と話す名波は、4年前の記憶も相まって、拭い難いアジアコンプレックス、とりわけ中東コンプレックスに苛まれていたことも確かだった。

「前回も中東(UAE開催)で苦しんだし、また今回(レバノン開催)も同じようになるのかな、という感じで準備していましたね」

 しかしながら、当時の日本代表にとって心強かったのは、名波らが経験してきた"負の歴史"とは、まるで無縁の新たな世代が台頭していたことだった。

 1990年代に入り、育成年代の強化に注力してきた日本は、1995年に初めてアジア予選を突破してワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)に出場すると、その後も1997年、1999年と3大会連続出場。1999年大会では、準優勝という歴史的快挙まで成し遂げていた。

 そして、このアジアカップと同じ2000年に開かれたシドニー五輪では、ベスト8進出。メダル獲得こそならなかったが、彼ら若い世代の存在が、日本サッカーの明るい未来を予感させていた。

 自身、監督やコーチとして1996年アトランタ五輪、1997年ワールドユースなどを経験し、トルシエの下、日本代表コーチを務めていた山本昌邦が語る。

「日本がぐんぐん自信をつけていく時代でしたよね。育成年代から『歴史を変えよう』をキーワードにしてやってきて、すでに何度も世界を経験している若い世代には、そういう勢いがありました」

 ただ、日本が次々に歴史を変えていった時代ゆえ、この大会に臨むにあたっては厄介な問題も抱えていた。山本は言う。

「あのアジアカップはシドニー五輪からの連続で、準備のスケジュールが重なってしまうような状態だったんです」

 日本のアジアカップ初戦は10月14日。シドニー五輪の決勝は9月30日。もしも日本がシドニー五輪で決勝まで進んだ場合、ふたつの大会の間隔は2週間しかない。