日本代表で繰り返す左SB不在問題。
長友佑都の後釜は誰がいいのか?

  • 中山淳●取材・文 text by Nakayama Atsushi
  • photo by AFLO

 その後、右サイドバックやセンターバックでプレーしたポリバレントな柳本啓成(サンフレッチェ広島)を4−4−2の左サイドバックに起用。まずはその場をしのぐと、3バックに移行した時期になってからは、ようやく左のスペシャリスト相馬直樹(鹿島アントラーズ)が1995年5月に代表デビューを果たした。

 当初は左ウイングバックで、その後布陣を4−4−2に戻してからも、相馬は加茂ジャパン不動の左サイドバックとなる。岡田武史監督で臨んだ初めての1998年W杯フランス大会でも、左ウイングバックとして全試合にスタメン出場を果たした。

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 ところが、1998年W杯後に就任したフィリップ・トルシエ監督の時代になると、再び左サイドバックの駒が流動的になる。"フラット3"と呼ばれた3バックシステムを採用したトルシエ・ジャパンは、立ち上げ初期こそ相馬が左ウイングバックを務めた。

 だが、1999年コパ・アメリカでの惨敗を受けて指揮官が世代交代を推進すると、その後は名波浩(ベネツィア)、服部年宏(ジュビロ磐田)、平野孝(名古屋グランパス)、中村俊輔(横浜マリノス)、小野伸二(フェイエノールト)と、服部以外は非本職系プレーヤーが左ウイングバックに配置された。

 最終的に、2002年W杯で左ウイングバックを務めたのは小野である。

 2002年W杯後に就任したジーコ監督時代の4年間は、3バックと4バックを併用。だが、そのどちらの場合も三都主アレサンドロ(清水エスパルス→浦和レッズ)がほぼ固定された。

 ただし、三都主は本来DFではなかったために、4バック時は守備の問題が露呈。そこで、左右両サイドをこなす駒野友一(サンフレッチェ広島)が重要なバックアッパーとしてそれをカバーするなど、左サイドに不安を抱えたまま2006年W杯ドイツ大会に挑んでいる。

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