日本代表で繰り返す左SB不在問題。長友佑都の後釜は誰がいいのか? (2ページ目)

  • 中山淳●取材・文 text by Nakayama Atsushi
  • photo by AFLO

 ここにきて急浮上してきた日本代表の左サイドバック問題。だが、過去を振り返ると、実は多くの歴代代表監督たちが同じ問題に頭を悩ませてきた歴史がある。

 日本にプロリーグが誕生してから、最初にこの問題を抱えたのはハンス・オフト監督だった。当時絶対的な左サイドバックとして君臨していた都並敏史(ヴェルディ川崎)が1994年W杯アジア最終予選を前に大きな負傷をしてしまうと、その代役探しに四苦八苦した。

 困ったオフト監督は右の勝矢寿延(横浜マリノス)を左にコンバートしてみたが、思うようにフィットしなかった。すると、本番直前の試合で三浦泰年を緊急招集して左サイドバックに抜擢。しかし、清水エスパルスのボランチでプレーしていた三浦を起用しても機能せず。

 結局、最終予選の3戦目からは再び勝矢に戻すという事態に陥った。"ドーハの悲劇"が起こったイラク戦も、左サイドバックは勝矢が務めた。

 そもそも、オフト監督はプレー不可能とわかっていながら都並をメンバーとしてチームに帯同させ、対戦相手に負傷を隠し続けようとしたのだから、その苦悩ぶりがよくわかる。

 都並の後継者問題は、オフトからバトンを受けたファルカン監督の時代も続いた。

 8カ月で9試合という短命に終わったファルカン時代に左サイドバックを務めたのは、岩本輝雄(ベルマーレ平塚)と遠藤雅大(ジュビロ磐田)という代表デビュー組。最終的には岩本が一列前でプレーし、遠藤がそこに収まることになった。

 だが、1994年広島アジア大会で韓国に敗れて準々決勝で敗退すると、遠藤は戦犯扱いを受けてしまった。結局、同大会を最後にファルカンが退任したあと、ふたりが再び代表でプレーすることはなかった。

 ようやく都並の後継者問題が解決したのは、ファルカンのあとを継いだ加茂周監督の時代だ。ただし、加茂ジャパンはドーハ組を呼び戻して再出発したため、初陣となった1995年インターコンチネンタル選手権の2試合は都並が先発している。

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