2020.06.23

思い出すのもイヤだった「ドーハの悲劇」。
三浦泰年、27年後の告白

  • 佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • 藤巻剛●撮影 photo by Fujimaki Goh

 日本代表に呼ばれ、左SBに起用された理由としては、レギュラーの都並敏史の左足首の状態が悪く、W杯の最終予選の初戦は累積警告で出場停止だったからだ。

 その代役として、スペイン合宿で試された選手もいたが、オフトの御眼鏡にはかなわかった。三浦は、88年から89年にかけて読売クラブで左SBとしてプレーしていた。その時、一緒にプレーしていたラモスの「ヤスがいい」という進言もあり、三浦に白羽の矢が立ったのだ。

「都並さんの左足首のことは知っていました。でも、(都並さんが)抜けるのは最終予選の最初の1試合だけで、すぐに戻ってくると信じていました。それに自分が左サイドバックとして相手が嫌がる試合ができるのは、1、2試合だけ。相手にすぐにウィークポイントを見つけられてしまうのはわかっていたので、都並さんが復帰するまで自分の役割を果たし、なんとか持ちこたえられたらいいなと思っていました」

 初めての試合となるアジア・アフリカ選手権、コートジボワール戦で左SBとして出場した三浦は、オフトやラモスの期待に応えた。相手を完封し、決勝点となるゴールの起点になったのだ。

アメリカW杯アジア最終予選を振り返った三浦泰年

「カリオカ(ラモス瑠偉)を攻撃で活かす。左サイドからゲームを作る。その仕事はできたかなと思います」

 三浦は、芽生えた自信を持ってドーハへと旅立った。

 1993年10月15日、日本はアメリカW杯アジア最終予選、サウジアラビア戦を迎えた。