日本サッカーの未来が懸かった一戦。窮地を救ったカズの魂の右足 (2ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo
  • photo by AFLO

無料会員限定記事

 日本は前半の立ち上がりから主導権を握って攻めるのだが、なかなか決定機をつかめなかった。なにしろ、攻撃をリードするはずのラモス瑠偉が、この大事な試合で体調不良のためベンチを温めていたのだ。

 エースとして期待された三浦知良(カズ)も試合後に「あきらめはなかったが、焦りはあった」と認めている。残り時間は少なくなり、このままではグループリーグ敗退となってしまう......。

 1992年は、日本サッカーの歴史のなかでとても重要な年だった。

 翌93年にJリーグがスタートすることが決まっていた。92年9月には、そのプレ大会として「Jリーグヤマザキナビスコカップ」が開幕。多くの観客がスタジアムを埋め、熱狂的な雰囲気のなかで試合が行なわれていた。すでに準決勝まで終わっており、アジアカップ終了直後に東京・国立競技場で行なわれる決勝戦は、ヴェルディ川崎と清水エスパルスの対戦と決まっていた。

 日本代表も、92年には大きく変わった。

 日本代表史上初めての外国人プロ監督としてハンス・オフトが就任。オフトは94年のアメリカワールドカップ出場を目標に掲げ、実際、8月に中国・北京で行なわれた第2回ダイナスティカップ(現在のE-1選手権の前身)では、PK戦の末に韓国を下して優勝を決めていた。それまでアジアの大会にどうしても勝てなかった日本が、ついに国際大会でタイトルを獲得したのだ。

全文記事を読むには

こちらの記事は、無料会員限定記事です。記事全文を読むには、無料会員登録よりメンズマガジン会員にご登録ください。登録は無料です。

無料会員についての詳細はこちら

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る