闘将・柱谷がラモス瑠偉に最後通告。オフトジャパン初優勝の夜の叫び (7ページ目)

  • 佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • 甲斐啓二郎●撮影 photo by Kai Keijiro

 リラックスルームができたのも、オフトが監督になってからの合宿で、東京プリンスホテルに投宿した時だった。トレーナーを1人から3人に増やしてもらい、大きなリラックスルームの奥にマッサージルームをつくった。リラックスルームでは飲み物やサッカーのビデオなどを置き、選手が集まって話ができる環境づくりをした。当時、リラックスルームで一番話をしていたのが福田、井原正巳、中山雅史、そして森保だったという。

 また、ダイナスティカップで優勝したあと、ユニフォームに日の丸を復活させた。

「うちの兄貴(柱谷幸一)が代表の頃は日の丸が入っていたんだけど、横山(兼三/前監督)さんの時代になくなって、その時は『つけてください』とは言えない雰囲気だった。オフトになって、やっぱり日本のために戦うので、日の丸が欲しいと協会にお願いをしたら左袖につけてくれた。俺はキャプテンマークで隠れてしまうからという話をしたら、キャプテンマークに日の丸を入れてくれたんですよ。やっぱり重みが違うし、日本のためにという意識がより強くなった。W杯予選に向けて、チームも環境もプロとして整ってきて、あとはやるだけだなって思っていました」

 柱谷は、キャプテンとしてチーム環境の向上に尽力した。協会との折衝役になり、今の代表チームの環境の基礎づくりをしていったのである。そして、93年10月、プロになった選手たちは、チームに完全融合したラモスと共に、いよいよ決戦の地、カタールのドーハへと向かうことになるのである。

(つづく)

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