闘将・柱谷がラモス瑠偉に最後通告。
オフトジャパン初優勝の夜の叫び

  • 佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • 甲斐啓二郎●撮影 photo by Kai Keijiro

「アジアカップで優勝できたのはラモスがいたからです。これまで真ん中ばっかり攻めてゲームを壊すこともあったけど、今大会ではそういうのがだいぶなくなった。彼の才能がアクセントになって、しかもチームに溶け込んでくれた。ラモスがちゃんと20人の中のひとりになった大会だった」

92年アジアカップに臨む日本代表。快進撃を遂げて優勝を果たした photo by AFLO92年アジアカップに臨む日本代表。快進撃を遂げて優勝を果たした photo by AFLO 日本で開催されたアジアカップ優勝で、日本代表は俄然注目されるようになった。翌93年5月のJリーグ開幕に向けて代表の優勝が呼び水となり、サッカーが大きなムーブメントになろうとしていた。

 そして、環境もプロへの移行で変化した。1年前は日当1万円だけの支給で勝利ボーナスも優勝賞金の分配もなかった。それをカズが中心になって「プロになるのに」と異議を唱えて、柱谷が協会と交渉し、91年のキリンカップ優勝時、勝利ボーナスが初めて支給された。それはオフト監督になっても継続され、優勝賞金も分配された。また、新幹線はグリーン車になり、飛行機もビジネスクラスに変わった。

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