鈴木啓太が惨劇に呆然。アジア最終予選で
アテネ五輪代表を襲った危機

  • 佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • 甲斐啓二郎●撮影 photo by Kai Keijiro

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第10回
アテネ五輪に出場できなかった主将の胸中~鈴木啓太(1)

2004年のアテネ五輪アジア予選について振り返る鈴木啓太2004年のアテネ五輪アジア予選について振り返る鈴木啓太「僕たち、『谷間の世代』って言われていたんですよ」

 鈴木啓太は、そう言って苦笑した。

 鈴木たちの世代は、小野伸二、稲本潤一、遠藤保仁ら「黄金世代」とは、学年的にはふたつ下で、五輪やU-17、U-20などの世代別W杯を指針にすれば、ちょうどひとつ下の世代となる。

「黄金世代」は、1999年ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会で準優勝という快挙を達成。2000年シドニー五輪でベスト8に進出し、2002年日韓共催W杯にも多くの選手が代表に選出され、日本初のベスト16入りに貢献した。

 一方、鈴木たちの世代は、2001年ワールドユース・アルゼンチン大会でグループリーグ敗退。2002年日韓W杯においては、当時19歳、20歳という年齢を考えれば無理もないが、メンバーに選出された選手はひとりもいなかった。

 それでも、鈴木らは2004年アテネ五輪の主軸となる世代であり、チームが始動したときには注目された。しかし、練習試合では当初、Jクラブ相手にボコボコにされた。2003年ワールドユース・UAE大会(日本はベスト8入り)のメンバーが加わっても、なかなかチーム力は上がっていかなかった。輝かしい結果を残してきた「黄金世代」との対比で、いつしか彼らは「谷間の世代」と呼ばれるようになっていた。

「(そう呼ばれたことは)悔しかったですね。でも現実、『仕方がないな』という思いもありました。Jリーグの試合で戦っていても、黄金世代の人たちとのレベルの違いは感じていたし、実際『(黄金世代は)すごいな』って思っていた。

『じゃあ、どうするんだ?』って考えた時、結果を出していくしかない――アテネ五輪の予選は『絶対にクリアしないといけない』と思っていました」

 アテネ五輪最終予選は2004年3月、UAEと日本を舞台としたダブルセントラル方式で行なわれた。日本は、バーレーン、レバノン、UAEと同組で、1位になったチームがアテネ五輪への出場切符を手にすることができる。

 日本は、28年ぶりに五輪出場を果たした1996年アトランタ五輪、2000年シドニー五輪と、2大会連続で五輪に出場。連続出場への期待は大きく、世間的には「出て当たり前」といった雰囲気もあった。

1 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る