石川竜也は思う。「10年後、Jリーグ監督は黄金世代だらけになる」 (2ページ目)

  • 佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • 高橋 学●撮影 photo by Takahashi Manabu

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 一方、石川は当時、筑波大学の学生だった。世界大会を経験し、やれる手応えを感じたのであればさらに上の世界を目指し、レベルの高いところでプレーしたいと思うのが普通だ。しかし、石川には大学をやめてすぐにプロになる選択肢はなかったという。

「僕らの頃は大学の特別指定制度(大学生が大学に所属したままJリーグのクラブに所属できる制度)がなかったので、プロになるには大学をやめるしかなかったんです。だから、僕は4年で卒業してプロに行くと決めていました。

 もちろん、大学から代表に行くと少しギャップがあることを感じました。大学だとボールを持った瞬間はまだDFとの間に余裕があるんですけど、プロではトラップした瞬間に、敵DFが目の前にいてプレッシャーをかけられる。代表に呼ばれて合宿に行くと、そういうプロの"速さ"になれるのに時間が必要でしたね。でも、2日ぐらいで慣れるし、慣れたら十分やれたので、大学でプレーすることにブレはなかったですね」

 当時の筑波大はレベルが高く、同期に羽生直剛や平川忠亮ら質の高い選手が揃っていた。そういう仲間がいたことで、石川は大学でもモチベーションを落とさずにプレーできた。それでも大学で勝ち続けてそこに慣れてしまうと、目標があやふやになり、うまくいかないこともあった。石川はそういう苦しい時期も肥やしにして、4年間、筑波大学の中心選手としてプレーした。

「サッカーはもちろん、学生生活もすごく充実していて、楽しい4年間でした」

 2002年、石川は鹿島アントラーズに入団した。鹿島には相馬直樹という元日本代表の絶対的な左サイドバックがいた。石川は、あらゆることを相馬から吸収しようとしたという。その後、東京ヴェルディを経て2007年にモンテディオ山形に期限付き移籍。2008年には、山形のJ1昇格に大きく貢献した。その時、チームにナイジェリアのワールドユースと似た雰囲気を感じたという。

「夏を越えたぐらいから、みんな自信を持ってやっていましたね。チームでやりたいサッカーが全員で共有できていたし、みんな同じ方向を向いて戦っていた。こういうチームが昇格するんだというのを感じました。チームが成長して強くなっていったんですけど、それはナイジェリアの時と同じでしたね」

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