黄金世代・遠藤保仁が忘れられない「いちばんキツかった」悔しい経験 (2ページ目)

  • 佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • 牛島 寿人●撮影 photo by Ushijima Hisato

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 ワールドユースの後、遠藤が次の目標に掲げたのは2000年のシドニー五輪に出場することだった。シドニー五輪の代表チームはフィリップ・トルシエ監督が指揮することが決定しており、それがワールドユース組にとっては大きなアドバンテージになっていた。

 だが、編成メンバーは同世代だけではない。2つの代の混成チームになるのだが、上の代には、中村俊輔、柳沢敦、明神智和、宮本恒靖らがおり、またトルシエ監督はオーバーエイジ(OA)枠で3人の選手を起用すると明言していた。五輪チームのメンバー枠は18名で、3人がOA枠で埋まると残りは15名。その椅子を同世代と上の世代の選手たちと争うことになったのだ。

「ワールドユースが終わってからは、五輪が自分の中でいちばん大きな目標になった。兄貴(彰弘)も出ていたし、今ほど五輪に価値を見出すことができていなかったけど、それでも出たかった。ただ、五輪代表は俺らの代だけじゃなく、上の代の選手も入ってくるんでね。相当ハードルが高くなると思っていた」

 当時は、中田英寿が海外でプレーしているぐらいで、海外組を気にする必要はなかった。単純にJリーグで力を見せて、競い合う状況だった。

「ほんと、Jリーグでがんばるしかなかった。監督はワールドユースの時と同じやし、その大会を見て、トルシエ監督は俺の実力をわかっていたと思うんで、あとは上の代の選手との兼ね合いというか、実力差かなって感じだったからね。でも、中盤は激戦区やった。(中田)浩二はディフェンスラインに入って、ヒデさんは前めで、酒井(友之)は右ウイングバックに入ったけど、ボランチの軸はイナ(稲本潤一)とミョウ(明神智和)さんだったんで、これは五輪に選ばれない可能性もあるなって思っていた」

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