黄金世代・永井雄一郎がドイツから戻って浦和で味わった強烈な競争

  • 佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • 甲斐啓二郎●撮影 photo by Kai Keijiro

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世界2位の快挙から20年......
今だから語る「黄金世代」の実態
第8回:永井雄一郎(3)

 ナイジェリアワールドユースで準優勝を果たした選手たちは日本へ帰国し、サッカー界は大きな盛り上がりの中でシドニー五輪に向けて動き出した。

 ドイツのカールスルーエから浦和レッズに戻った永井雄一郎だが、1999年はチームが低調のままJ2に陥落し、五輪イヤーの2000年はJ2でのスタートになった。永井は、シドニー五輪を戦うU-23日本代表になかなか絡めずにいた。

ワールドユース後について語る永井雄一郎ワールドユース後について語る永井雄一郎「俺は、あっさりシドニーの代表から外れました。トルシエはJ2からは呼ばないと言っていたし、自分の調子もまだまだだった。でも、できれば行きたかったですね。自分は97年と99年を経験していたんで、このふたつの世代がミックスしたらどんなサッカーになるんだろう、って興味があったし、それをチームの中で感じてみたかった」

 2001年にチームはJ1に昇格したが、永井が日本代表に招集されることはなかった。

 ナイジェリアでともに戦っていた小野伸二、稲本潤一らは日本代表の中軸としてプレーしていた。彼らの活躍は自然と目や耳に入ってきたが、永井は自分の立ち位置を冷静に見ていた。

「代表に選ばれないのは、自分の能力が足りないだけだから、そこは客観的に見ていました。『なんで俺が入れないんだ』っていうよりも、まだ自分はそこに行けない、っていう感じですね。代表は基本的にチームでレギュラーを獲っている選手が行くわけだから、俺らの年代でレギュラーに定着しているのは単純にすごいなって思っていた。レッズでは、レギュラーを確立するのがすごく難しかったですからね」

 当時の浦和は毎年、強烈なFWを補強していた。2001年はトゥットやアドリアーノ、さらにはエメルソンが加入し、2005年にはロブソン・ポンテ、2006年にはワシントンらが入ってきた。

「レッズは毎年、最強の助っ人が来るんですよ。だから、試合に出るのが大変だった。自分が1年良くても、次のシーズンにはまたすごいのを呼んでくるからね。そうなると、またイチからだし、お金をかけて呼んでいるから彼らを使わないといけない。『じゃあ俺はいらないじゃん』ってなる。レッズでは何年もその繰り返しだった」

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