2019.04.27
平成を彩った日本サッカーの原点。
「世界への扉」が開かれた1996年

- 飯尾篤史●文 text by Iio Atsushi
- photo by Katsuro Okazawa/AFLO
戦前には思いもよらなかった2点のリード。しかし、そこからが長かった。
72分には、CKからヘッドを許したが、中田がゴールライン上で決死のクリア。
77分には、フセイン・スリマニのFKを、警戒していたオベイド・アル・ドサリにまんまと頭で合わされ、リードはわずか1点となる。
83分、右CKを蹴る際、前園が足を滑らせて倒れ込み、時計の針をわずかに進めた。のちに前園は、これが時間稼ぎだったことを認めている。
88分には、フセイン・アル・マサアリのヘディングシュートを川口がセーブ。
アディショナルタイムにも、ゴール前のこぼれ球を川口が懸命の守りで抑えた。
この4か月後、マイアミでのブラジル戦で川口はビッグセーブを連発してチームを勝利に導くことになるが、この最終予選ですでに鬼神のごときゴールセービングを披露していたのだ。
そして、現地時間の21時46分、レフェリーのホイッスルがシャーアラム・スタジアムに鳴り響いたとき、日本サッカー界にとって新たな歴史の扉が開かれた。
90分にわたってサウジアラビアの猛攻を防いだ川口が涙を流し、殊勲のキャプテンは日の丸をまとって雄叫びをあげ、そして中田は歓喜の輪から離れ、ひとりクールに振る舞っていた。
ドーハで一度は閉じられた世界への扉をこじ開けたのは、間違いなく彼らアトランタ五輪代表だった。このとき、アジア予選で敗れていたら、もしかすると、1年半後のワールドカップ予選で世界への切符を手にすることは難しかったかもしれない。
日本は、1996年のアトランタ五輪と1998年のフランスワールドカップ以降、オリンピックにも、ワールドカップにも連続出場を果たしている。その歴史の原点にあるのは間違いなく、このシャーアラムでのサウジアラビアとの死闘だった。