ヒデと福西の言い合いが象徴する混乱。
「ジーコは何も言わなかった」

  • 佐藤 俊●取材・文 text by Sato Shun
  • 甲斐啓二郎●撮影 photo by Kai Keijiro

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第1回
「喧嘩」と報道された中田英寿との衝突~福西崇史(2)

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福西崇史(ふくにし・たかし)。1976年9月1日生まれ、愛媛県出身。ジュビロ磐田「黄金期」の主力メンバー。日本代表でも活躍。国際Aマッチ出場64試合、7得点。サッカー解説者。福西崇史(ふくにし・たかし)。1976年9月1日生まれ、愛媛県出身。ジュビロ磐田「黄金期」の主力メンバー。日本代表でも活躍。国際Aマッチ出場64試合、7得点。サッカー解説者。

 2005年3月、ドイツW杯出場を目指してアジア最終予選を戦っていた日本代表は混乱していた。

 初戦の北朝鮮に辛勝したあと、第2戦のイラン戦の前には、紅白戦の最中に中田英寿と福西崇史が"衝突"した。原因は「ボールの奪いどころ」だった。しかし、両者の話し合いは決着をみず、紅白戦ではスタメンのAチームが惨敗した。

 中田と福西の言い合いから始まった"カオス"は、システムを3バックから4バックに変更したことに端を発し、チーム全体の問題へと広がった。

 遡(さかのぼ)れば、2004年のアジアカップでは国内組中心のチーム編成で、3バックをベースにしたシステムで戦って優勝した。ジーコ監督は常に海外組を重視していたが、国内組の選手も"やれる"ということをそこで示した。そうした経験と結果(実績)により、選手たちも自信を持ち、3バックでは安定した戦いができるようになっていた。

 しかし、アウェーのイラン戦を前にして、ジーコ監督は4バックへのシステム変更を指示した。

 その理由のひとつが、スカウティングからの情報でイランが変則的な3トップだったからだ。3バックだと相手FWと1対1の関係になってしまうが、4バックであれば、中澤佑二が相手センターFWのダエイ、左右のFWには右サイドバックの加地亮と左サイドバックの三浦淳宏がついて、相手トップ下のカリミをボランチの福西がケアすれば、最終ラインには宮本恒靖が余る。つまり、相手攻撃陣に対して常にひとり余る形を志向するジーコ監督の考えに、4バックが適していたわけだ。

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