札幌・バルバ監督が語った「代表監督本命、ハリルホジッチ」

  • 木村元彦●文・写真 text & photo by Kimura Yukihiko

――崩壊する前のユーゴ代表で、監督がミリャニッチのときですね。ヴァヒドは最後、パリ・サンジェルマンに移籍して、そこで引退してから、指導者として古巣のモスタルに帰ります。

「モスタルに帰って来てから、木村さんも知って通りの内戦が始まったので、フランスに再び渡って、ボーヴェで改めてキャリアを始めました。カサブランカを経て、リールで数年指揮を執りました。フランスでは、このリールで一番良い成績を残したはずです」

――シュワーボ(オシム氏の愛称)の『オシム 終わりなき闘い』(NHK出版)でも取材しましたが、モスタルはボスニア紛争で最も熾烈な戦場となった地域です。彼の家は大丈夫だったのでしょうか。あなたも同じモスタルで厳しい状況だったと思います。

「ヴァヒドの家、そして経営しているカフェも町の中心にありました。そこで過ごそうとしていたはずですが、両方とも戦火に焼かれたと聞きました。私は当時、スペインでプレーしていましたが、モスタルにいた両親は、何度も危険な目にあってマカルスカに避難しました。両親はいつ死んでもおかしくない状況でした。あの戦争については、今でも答えがないと思っています」

――監督としてのハリルホジッチをどう見ていますか。ボスニアを追われてフランスやトルコのクラブを指揮して、2008年にコートジボワールの代表監督に就任します。ネイションズカップで結果を出せずに解任されますが、評価は高かったですね。

「コートジボワールでは、攻撃的ないいサッカーをして、ある程度いい結果を得たというのは知っているんですけれども、私が一番記憶に残っているのは、やはり前回のブラジルワールドカップでアルジェリアを率いたときですね。ベースとなるスタイルはあって、その上で事前に分析して対戦相手によって戦い方をしっかりと変えていました。

 チャンピオンになったドイツと対戦した決勝トーナメント1回戦では、規律を徹底して手堅く守るという試合展開で、延長戦に持ち込みました。ブロックを作るだけではなく、攻守の切り替えがすばらしく速くて、特に前半は押していました。残念ながらノイアーに止められてしまいました。逆に力の同等の相手になると、フォーメーションを変えて攻撃陣を1人増やして、試合を支配して果敢に攻めた。そういう戦術的な部分が非常に良かったと思います」

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