2013.10.27

福田正博「20年前のドーハは
『悲劇』じゃない」

  • 飯尾篤史●構成 text by Iio Atsushi photo by AFLO

 とりわけ、10番を背負うラモスとオフトのサッカー観は正反対に近く、実際にふたりは何度か衝突している。しかも、トレーニングでは、「スリーライン」「スモールフィールド」「アイコンタクト」「トライアングル」といったキーワードのもと、基本が徹底的に繰り返され、「俺たちは高校生じゃないんだ」と、不満を募らせる選手も少なくなかった。

「物足りないと感じる選手もいたけれど、そうした基礎がなっていない選手が代表の中にいたのもたしかで、俺なんかもそうだったと思う。だから、今まで感覚的にやっていたことが論理的に整理されたし、サポートの角度やパスの回し方など、サッカーがどういうものか教えてもらった」

 そう語る福田にしても、オフトを初めから信頼していたわけではない。むしろ、最初は不信感でいっぱいだったという。

 オフトジャパンの初陣となったのは1992年5月、アルゼンチンとウェールズを招いて行なわれたキリンカップだった。この大会に招集された18人の選手のうち、2試合ともベンチにすら入れなかったのは、福田だけだったのだ。

「大会後、オフトが、『ひとりずつ自分に点数を付けろ』と言ったんだ。それで自分の番が来たから、『2試合ともベンチにすら入れてもらってないから、点数なんて付けられない。逆に、なぜ自分を選んだのか教えてくれ』と詰め寄った。そもそも、”オフトは俺のプレイの特徴を知っているのか?”という疑問もあったから。みんなは驚いたみたいだったけど、”代表には二度と呼ばれないだろうな”という覚悟で聞いた。でも、直後に行なわれたオランダ遠征にも選ばれて、チャンスをもらったんだ」

 この遠征の3試合、すべてにスタメンで起用された福田は、指揮官の信頼を勝ち取り、以降、不動のレギュラーとなる。そして、チームは短期間で結果を残し、オフトは求心力を高めていった。