ドーハの夜。オフトが綴った「二文字」が日本の未来を開いた (2ページ目)

  • 浅田真樹●文 text by Asada Masaki
  • FAR EAST PRESS/AFLO

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 山本は当時、ナショナルコーチングスタッフのひとりとして日本代表に帯同し、現地ドーハに入っていた。

 主な仕事は対戦相手の情報を手に入れ、分析すること。のちに、1996年アトランタ五輪で監督とコーチという関係になる西野朗(五輪後はガンバ大阪などJクラブの監督として活躍)とともに、いわゆる「偵察部隊」を担当していた。山本は当時を「一生懸命スカウティングをして、その場にいられること自体がうれしかった」と振り返る。

「ラモス瑠偉以下、カズ(三浦知良)、ゴン(中山雅史)といった一流の選手と一緒に毎日生活して、チームが成長していく過程をずっと見られた。最終的には成功体験にはならなかったけれども、『ここまで来たんだ』っていう充実感があったし、あと『こうすれば(W杯に)行けるんじゃないか』っていうのも認識することができました。あの場にいられたっていうのは、自分にとってすごくエネルギーになりました」

 とはいえ、ドーハに入ってからというもの、山本に与えられた任務は過酷だった。対戦相手の練習を偵察に行くとは言っても、そのほとんどが非公開。現在のように、非公開練習であっても、冒頭15分間だけは公開しなくてはいけないという規定もない時代である。

 練習場となるスタジアムにバスが到着し、選手が中に入ってしまえば、あとはシャットアウト。"正攻法"では練習を見ることなどできなかった。分析うんぬんの前に、まずは「いかに練習を見るか」の戦いだった。ドーハについて最初の1週間は、そのための時間を費やし、スタジアムの周辺をくまなく調べた。そして、ちょっとした警備の隙、わずかな壁の隙間などを見つけて偵察した。ときには警察に通報されることも覚悟のうえで、スタジアムに隣接したビルに潜入し、洗濯物の間から練習を見たこともあったという。

「ある意味で、命がけだったかもしれないですね。(スタジアム周りの)警備員の人数と、どういう動きで警備をしているかを確認し、スタジアムの土手をダッシュして駆け上がったり、匍匐(ほふく)前進して登ったりして、(警備に捕まるかどうか)ギリギリのところで練習を見ていました。それを、西野さんとふた手に分かれてこなした。ふたり一緒にいて捕まったりしちゃうと、情報がゼロになっちゃう危険性があるから。第一、ふたり一緒にいて『ここはこうですね』なんて話をしながら見ている余裕はない。バラバラに動いて、最後にすり合わせをしていました」

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