【日本代表】齋藤学(横浜F・マリノス)「実力が伴えばブラジルは見える」 (2ページ目)

  • 小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki
  • 藤田真郷●写真 photo by Fujita Masato

 繰り返すが、カットインは齋藤が得意とするスタイルである。しかし、ボランチがそのスペースをケアし、CBがカバーに入ると容易にはいかない。そこで彼はプレイの幅を広げようと中盤に引いてボールを受け、リズムを作ってから前に上がる動きも試したが、器用なプレイは未成熟だった。しかも下がることでゴール前でのプレイへの関与が遅れ、調子は狂い続けた。

「キヨ(清武弘嗣)や東(慶悟)は器用なMFで、降りてきてキープしてサイドを変える、ということをしながら攻撃に絡めるんです。俊さん(中村俊輔)やマルキ(マルキーニョス)もそう」

 齋藤は悔しさを口許に滲(にじ)ませて言う。

「自分は中盤のプレイに絡むと前に行けず、悩みました。そのときに、チームスタッフが、『学の良いところはここに収めてあるから』って自分のビデオを作ってくれたんです。そのおかげで、リーグ戦最後の5試合はパフォーマンスが安定してきました。サイドで高い位置を取ることに集中できるようになり、札幌戦は2得点。コーナーポスト付近でのプレイが増えてきたんですよ」

コーナーまで侵入するプレイを、斎藤は「ポケットを取る」と表現した。1試合の中で5回以上ポケットを取れるか。それは齋藤にとっての自己評価基準の一つになっている。
 
 川崎市、鹿島田駅の裏手にある空き地。小さな少年は時間を見つけてはボールを蹴っていた。当時は大人の背の高さにプラットホームがあった。その下のコンクリートの壁にGK役の友人を立たせ、キックをする。気を抜いてコントロールを誤ると、ホームを抜けて線路内にボールが入っていった。駅員にぺこぺこと頭を下げながらボールを取ってもらったこともある。

 その空き地はすでに駐車場になっているという。

 齋藤は小2まで地元クラブチームの練習に通っていたが、小3になるとF・マリノスのプライマリーにセレクションで合格した。ただ、最初は気が乗らなかったという。

「三つ上の兄がサッカーをしていて、同じように川崎市選抜に入り、黄色いユニフォームを着たいと憧れていたんです。当時は兄のように川崎フロンターレのジュニアユースに入ると勝手に思っていました。マリノスは家から新子安の練習場まで通う必要があったので、地元から離れたくない気持ちもありましたね。でも、クラブチームの指導者から『将来プロになるなら行くべきだ』と勧められ、決めました」

 その後、横浜市選抜として川崎市選抜に勝利した。少年が抱いた淡い感傷は、成長するたびにかさぶたに覆われ、やがて強靱な心になっていった。

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