潮崎哲也が語る「魔球・シンカー」誕生の瞬間 カーブと反対の発想で投げてみたら人生が変わった
プロ野球ブルペン史
潮崎哲也が語る西武必勝リレー「サンフレッチェ」誕生の軌跡(前編)
巨人の鹿取義隆がリリーフとしての立場を確立する1984年。徳島・鳴門高の1年生だった潮崎哲也は、連日、画面に映る鹿取の勇姿を見ていた。のちに西武で同僚となるわけだが、当然、当時はまったく想像もつかないこと。はたして、どんな存在だったのか──。通算523登板で82勝、55セーブを挙げた潮崎に聞く。
シンカーを武器に1年目から活躍した潮崎哲也氏 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【鹿取義隆に憧れた少年時代】
「むちゃくちゃ憧れてましたよ。<鹿取>、<鹿取>、<鹿取>って、毎試合テレビをつければ鹿取が出てくる(笑)。子どもの頃から大好きなピッチャーでしたけど、高校2年の時にサイドスローで投げるようになってから、余計に鹿取さんを観察するようになったんです」
鳴門高は1909年創立の伝統校で、野球部は11年に創部。甲子園で優勝1回、準優勝2回の強豪でもあったが、潮崎自身、とくに野球へのこだわりは強くないままに進学し、入部した。当初は背番号5番の内野手で、投手としては二番手。フォームはオーソドックスだったそうだが、なぜ鹿取と同じサイドに転向することになったのか。
「エースと言われる人間がオーバースローで、いいピッチャーだったんですよね。そこで監督から『おまえは横でも下でも投げとけ』っていうふうに言われて。一応、アンダースローも試したなかで、落ち着くところがサイドスローだったということです」
3年生になった86年の春には、もうひとつ、監督から指示を受けた。同年の選抜大会で甲子園に出場した高松西高との練習試合。相手投手の新鞍幸一(現・志度商監督)が投げるボールに刺激されたという。
「2年生ピッチャーで、1学年下の選手でした。"上から目線"的な言葉になるんですけど、見た目は大したピッチャーじゃなかったんです。ふつうのサイドスローで。でも、きれいなフォームでピュッとシンカーを投げて、右バッターが打てども打てどもショートゴロ、サードゴロで打ち取られる。それで監督が『あれだよ、おまえが目指すところは』って言ったんですよね」
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著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など










































