中日・江藤慎一は水原茂監督に土下座も許されず。仲裁に向かった張本勲には「お前、入るな」 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 1941年太平洋戦争に突入すると、年齢を問わず兵隊に呼ばれた。33歳となっていた水原のもとに召集令状が届いたのは、1942年9月1日。巨人の三塁手としてシーズンMVPを受賞した直後だった。水原は地元丸亀の歩兵12連隊に招集され、中国大陸に送られると、満州国虎林地区九三六部隊に配属された。8年ぶりの満州であった。

 半年ほどで上等兵に昇進すると、兵器委員室勤務となった。何とか帰国をしたく、内地帰還すると言われていた部隊への転属を画策したが、この工作が裏目に出て、九三六部隊は帰還し、転属先の部隊は満州に残って牡丹江の防衛にあたることになってしまった。8月9日にソ連軍が参戦するとの報が入り、13日には爆撃を受けた。「水原分隊は牡丹江に架かった橋を死守せよ」との命が下ったが、兵隊は12名しかおらず、ソ連戦車部隊を防ぐことなど到底できない。この時、水原は死を覚悟した。それでも決戦のための穴を掘っていたら、「橋は爆破して引き上げることになった」と命令の変更が伝えられて九死に一生を得た。

 1945年8月15日に敗戦を迎え、ようやく内地に帰れると安堵していたが、9月1日には、ソ連軍の軍使が来て武装解除を命ぜられた。かつて管理していた恩賜の武器を差し出し、ここから水原はシベリアに送られたのである。

 これで帰国できると思っていた兵士の身からすれば知る由もなかったが、日本軍捕虜のシベリア抑留は、スターリンによる「50万人の日本人をソ連領内に移送して労働させよ」という1945年8月23日の極秘命令によるものであった。第二次大戦によって約2000万人の死者を出したソ連にとって労働力の確保は急務とされており、スターリンは日本人捕虜の徴用を考えたのである。

 水原は氷点下30度に下がる極寒の地、シベリアに37歳で抑留された。ラーゲリ(収容所)では、何人もの仲間が凍傷、飢えで亡くなり、異国の凍った大地の下に埋められていった。栄養不足に加えて路盤掘りなどの重労働が重なり、結核、チフス、赤痢......、多くの病が発症した。倒れると簡易病院に運ばれるが、不衛生なために身体や衣服に潜り込んだ大量の虱(しらみ)が媒介となってさらに感染者が増えた。虱は取り憑いていた患者が亡くなると、また集団で音を立てて息のある者に移動する。凍傷になった者は麻酔もなしでその箇所を切断された。

 水原は巨人軍時代にアメリカ遠征をしていることがソ連兵に知られていた。この過去に対してスパイの嫌疑がかけられて、過酷な取調べを2度に渡って課せられた。関東軍の特務機関に所属していたことで、敗戦後、抑留されたカザフスタンで同じくスパイ行為の罪でソ連兵に取調べを受けていた石原吉郎によれば、そのやり方は、深夜の熟睡中を狙ってたたき起こされ、未明にかけて1週間連続して行なわれたという。「このやり方はソ連ではすでに伝統的なものである」(『石原吉郎詩文集』講談社文芸文庫刊)

 日中の強制労働に加えてほぼ2週間、睡眠を止められていたことになる。厳しかったのは、ソ連軍に強いられた労働の環境だけではなかった。

 シベリアラーゲリでは、あらゆる記録をつけることは禁止され、見つかれば処罰された。それにも関わらず、ここで起きた出来事を伝え残さねばならないという使命感から、名刺大の紙に「豆日記」を書き続け、命がけで持ち帰った画家の四國五郎によれば、敗戦によって解体されるはずだった「日本の軍隊」が、ラーゲリのなかでは温存されていたという。

 そこでは、戦時中そのままの階級が引き継がれており、上級兵士が気に食わない下級兵士を虐待していた。裸にして、水風呂に入れ、そのなかに氷や雪を入れて凍えさせるアイスクリームと呼ばれたリンチなどが存在していた。さらには飢えた上級兵士が下級兵士を食べた、という記録もあったという。絵本『おこりじぞう』(金の星社刊)の挿絵で世界的に知られる四國は、帰国後、上官によるイジメにより、ラーゲリで首を吊って死んでいた兵士を陶板に彫っている。

 当時の捕虜の給与は、1日で雑穀400グラム、パン350グラム、砂糖10グラムというのが定量だった。不惑の年齢に近かった水原はそんなシベリアで約3年間、必死に生き抜いた。

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