岡田彰布が「屈辱やった」と語る突然の代打宣告。中村勝広監督との関係は冷めきり「現役を辞めてからもほとんどしゃべらんかった」

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:岡田彰布(前編)

 1992年1月12日、大阪市内のホテルで"岡田会"が行なわれた。阪神の主砲、岡田彰布の後援会である。当時、プロ13年目の34歳。「ベテラン」と呼ばれる域に達した岡田は、あいさつに立って言った。

「ここ数年、迷惑をかけてます。今季は通過点ですが1500安打を早く達成し、不評を吹き飛ばして納得のいくシーズンにしたい」

 節目の通算1500安打まで残り58本としていた岡田だったが、前年の91年は故障の影響もあってフルに出られず。プロ入り以来最低の打率.240に終わっただけに、復調を期して92年に臨んでいた。しかし結果的に、ヒットが35本に留まったのはなぜだったのか──。1985年の日本一メンバーで、2005年には監督として阪神を優勝に導いた岡田に聞く。

代打を出されベンチに引き下がる岡田彰布。左は中村勝広監督代打を出されベンチに引き下がる岡田彰布。左は中村勝広監督この記事に関連する写真を見る

開幕から極度の不振

「あの年はファーストに転向したんやけど、オープン戦でケガしたんよ。ジャンプしたあとにパーンと足踏まれて、けっこう血が出てな。スパイクの中が真っ赤になるぐらいやった。それで何日間か、練習できへんかったからな。開幕から調子悪かったんよ」

 ヤクルトとの開幕戦。チームは3対7と敗れはしたが、奪った3点のうち1点は岡田の第1号本塁打によるもの。幸先のいいスタートを切ったようでいて、右足のケガの影響で打撃の形を崩していた。新加入の3番ジム・パチョレック、前年から4番を打つトーマス・オマリーが好調な反面、5番の岡田はなかなかチャンスでヒットが出ない。

 4月24日、ナゴヤ球場での中日戦。初回、3回、5回と走者得点圏で打席に入りながら、いずれも凡退。開幕16試合で打率.185と低迷していた。すると翌25日の中日戦、岡田の打順が7番に降格する。さらに、2対1と阪神1点リードの5回のことだ。

 一死二、三塁となった場面で中日は6番の八木裕を敬遠。当然、次打者の岡田の気持ちがカッと熱くなるところだ。だが、打席に向かおうとする岡田に中村勝広監督が近づき、ポンポンと尻を叩くと、球審に代打、亀山努を告げた。開幕から急台頭した若手の亀山は4割近い打率を残していた。岡田は一瞬、あっけにとられた顔をしてベンチに引き揚げた。

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