43年前、人知れず「日本人2人目のメジャー」に近づいた元巨人軍投手
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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第26回 小川邦和・後編
「昭和プロ野球人」の知られざる過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。尾道商高でセンバツの準優勝投手となり、早大、日本鋼管を経て1972年のドラフト7位で巨人入りした小川邦和(おがわ くにかず)さんは、わずか5シーズンでチームを去ってしまう。
74年には12勝を挙げるなど実績を残してきたなか、唐突にも思える退団劇。その裏側では、V9時代が終わり、長嶋茂雄監督のもと最下位に転落するなど過渡期にあった巨人で"雑な扱い"を受けたことも一因だったようだ。
巨人をやめた小川さんは新天地をアメリカに求めた。当時は「挑戦するという気持ちはなかった」と言うが、人の縁や自身のバイタリティーもあって、渡米2年目の79年、ついにブリュワーズ傘下の3A、バンクーバー・カナディアンズに入団。日本にはまったく情報が伝わらないまま"日本人2人目"のメジャーリーガーを目指す日々が始まった。
不敵な表情でサイドスローから投げ込む巨人時代の小川邦和(写真=産経ビジュアル)
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「いまだに初っぱなの試合は憶えてる。ドジャースの3Aと、ニューメキシコ州のアルバカーキで。開幕日は雪で中止になってびっくりした。南のほうにあるけど高地だから寒いの。翌日の試合もとんでもなく寒かったよ」
小川さんのマイナーリーグ初登板の機会は、その寒かった開幕戦で巡ってきた。
「9回、3点差。ワンアウト一、二塁で、ペドロ・ゲレーロをショートゴロに抑えて。初めてのゲームでセーブを獲れた。ゲレーロは2年後にドジャースで4番打ったバッターだけど、何とか、幸先よく結果を残せた。でもそれは4月まで。だんだん相手バッターが調子を上げてきて、後半戦は不調だった。結局、28試合に投げて1勝7敗4セーブ、防御率は5点台だったもの」
たとえマイナーでも、当時、アメリカでプレーする日本人選手はいなかったわけだ。本場のアメリカで野球をやっているんだ、日本の野球とは違うんだ、という実感はどれほどあったのか。
「それはもう毎日が実感の連続だったね。そういう面では肉体的にも精神的にもすごい疲れたよ。前の年にセミプロとかで野球をやったから、ある程度はわかっていたけど、気候も違えば、長時間の移動も大変だったし」
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