高木豊が語る古葉竹識が「名将」たる所以と、広島時代からの「チーム古葉」のすごさ (2ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Sankei Visual

――チーム古葉の結束力を感じた?

高木 そうですね。揺るぎない信頼関係を感じました。もちろん古葉さん自身もすごい方ですが、古葉さんを取り巻く人たちを含めたチーム古葉のすごさが印象的でした。

――古葉さんのもとで野球をするなかで、新しい発見はありましたか?

高木 野球はとてもシンプルです。とにかく同じことを言い続ける。選手は「もうわかってるよ」と思うんですが、「でも、できてないだろ」って。だから、できるまで言うんです。

 試合前の円陣で選手たちにかける言葉も、いつも一緒で「とにかく頑張ろう」と。デーゲームの場合は、「太陽の位置だとかをちゃんとチェックするように」とかね。そういう言葉を常に口にしていました。古葉さんは"耐えて勝つ"を座右の銘にしていて、ファンへのサイン色紙なんかにもよく書いていましたけど、納得させられますよ。

「細心の注意を払う野球」とも言えるかな。たとえば、外国人打者に対しては、バッテリーに「初球は絶対にストライクから入るな」と指示したり。注意を払いながら、本当にオーソドックスに野球を進めていく方でした。「最初の1本」「最初の1球」というように、"第一動作"についてはしつこく言われたので、プレーのなかでかなり意識するようになりましたね。

――古葉さんが率いていた頃の広島には、高橋慶彦さん、山崎隆造さん、正田耕三さんといった足が速い選手が揃っていました。それと同じように、大洋には高木さん、屋鋪要さん、加藤博一さんらがいましたが、広島時代のように機動力を使った緻密な野球を推進しようとしていた?

高木 足は「あれば使う」という感じでしたね。それが主ではなかったと思います。やはり軸がしっかりしなきゃいけませんから。広島は山本さん、衣笠さんといった強打者でがっちりとクリーンナップを固めることができていたからこそ、足の速い選手も生きたと思います。

 それと、練習の環境を大事にされていました。大洋のキャンプ地を、静岡から沖縄に変えたのは古葉さんです。寒い場所よりは暖かい場所がいいだろうとか、こういうホテルにしようとか、夜中トイレに行く時は寝ている選手を起こさないように気をつけろとか、そういった点でも細心の注意を払う方でした。

2 / 3

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る