大洋の監督になった古葉竹識に、高木豊が「残念」と感じた理由。外野へのコンバートで得たものも明かした (2ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Kyodo News

――自分のチームの指揮官になった古葉さんはイメージが違った?

高木 鉄拳制裁を食らったとしても優勝したいですし、「勝つためだったらいい」と僕は思っていたんですけど、全然そんなことはなくて優しかったんですよ。指揮するチームが変わって"勝負"しなきゃいけない部分もありながら、「どこかに遠慮があるのかな」って感じましたし、残念でした。「広島を思うほどの愛情が、大洋にはないのかな」と思ってしまったんです。

 当時は、どこかのチームの監督を務めた方が、別のチームの監督になることがほとんどなかったんです。そのチームのOBが監督を歴任している時代でした。その意味で、古葉さんや近藤貞雄さん(中日、大洋、日本ハムを歴任)は、チームをまたいで指揮を執った監督の"走り"でした。後に野村克也さんがヤクルトから阪神、楽天、星野仙一さんが中日から阪神、楽天を歴任されたりしましたが、古葉さんが大洋に来た頃はそういった時代の入り口だったので、やはり遠慮があったのかもしれません。

――遠慮がちな姿勢は、大洋で指揮を執った3年間でずっと変わりませんでしたか?

高木 変わりませんでしたね。ただ、広島から連れてきたコーチ陣は、選手との接し方が広島の時と同じだったんじゃないかと思います。たとえば、若手のショートだった高橋雅裕は鉄拳制裁を食らっていました。

 でも、コーチが殴るのと、監督が直々にというのでは効果が違うというかね。もちろん今の時代では許されないし、殴ればいいというものじゃないですけど、そのぐらいの思いで接してほしかった。おそらく古葉さんは、大洋時代は誰にも手を上げてないんじゃないですかね。

――それは、選手を大人として見てくれていたというよりも、やはり遠慮していたという感じなのでしょうか?

高木 そうですね。それと、若手を育てようとしてましたね。キャンプの時なんかは若手中心。僕を含めたレギュラー、ベテラン勢は「自分のことが終わったら上がっていい」という状況でした。僕は若手と一緒にやってもよかったんですけど、そういうことはやらないのかなって、ずっと疑問でした。

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