元審判員が語るプロ野球の裏話。「ブラウン監督の退場劇の真実」「メイクドラマの張本人は?」 (3ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi
  • photo by Sankei Visual

 さらに広島の新聞にも「本来、江藤の骨折は起きていないはずの惨劇」と辛辣に書かれました。それまで江藤選手は打率.314、32本塁打、79打点と、4番打者として申し分ない成績を残していました。その江藤選手の戦線離脱は本当に大きかった。

 1996年の広島打線は江藤選手のほかにも、野村謙二郎選手、前田智徳選手、緒方孝市選手、金本知憲、ロペスらが並び、「ビッグレッドマシン」の異名をとったリーグ屈指の打線でした。

 それが江藤選手の離脱で勝てなくなり、さらに5月に4勝0敗で月間MVPに輝いた紀藤真琴投手が、9月は5連続KOと不振を極めたこともあります。巨人に最大11.5ゲーム差をつけていたのに、大逆転優勝を許してしまった。

 あの一件がなければ......もしかしたら球史に残る、いわゆる「メイクドラマ」はなかったかもしれないのです。

星野監督に鍛えられた審判人生

 私がプロの審判になる5年前の1987年、中日の宮下昌己投手が巨人のクロマティ選手に死球を与えたことに端を発した乱闘事件。星野仙一監督が王貞治監督のユニフォームをつかんだシーンは衝撃的でした。

 時は流れて2002年、中日から阪神のユニフォームに袖を通した星野監督の1年目のこと。阪神の田中秀太選手がホームスチールを敢行したのですがアウト。ブロックしたキャッチャーにきつく体当たりしたことで乱闘が始まったのです。

 その際、星野監督と中日の仁村徹コーチが大喧嘩になったんです。「徹、オレが下がるから、おまえも下がれ!」と。星野監督と仁村コーチは、本来は師弟関係にあったはずなんですが......。なんとも不思議なシーンでしたね。

 当時はまだ、本気モードで殴り合う選手もいて、それを察した周りの選手は「ヤバい、今日はマジだから近寄るな!」と。星野監督の率いるチームは本当に「戦う集団」で、緊張感がありましたね。

 とにかく星野監督には何度も抗議を受け、激高され、ある意味、審判として鍛えられました。

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