中日を襲った4番と監督のトラブル。「金正日やフセインが監督になったら...」

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第25回 森徹・中編 

(前編「ドラゴンズの二冠王は力道山の義兄弟」を読む>>)

 古武士のような「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫る人気シリーズ。東京六大学野球を代表するスラッガーとして1958年に早稲田大から中日ドラゴンズ入りした森徹(もり とおる)さんは、59年に本塁打、打点の二冠王に輝いたほどの主軸打者でありながら、わずか4年で大洋(現・DeNA)に放出されてしまう。

 不可解なトレードの原因とされるのが、61年に就任した濃人渉(のうにん わたる)監督と森さんとの人間関係のもつれだ。その経緯に話が及ぶと、森さんは現代史の独裁者たちの名を挙げながら、当時の出来事を嘆くのだった。 


1961年、ホームランを打った森徹。この年限りで中日を去った(写真=産経ビジュアル)1961年、ホームランを打った森徹。この年限りで中日を去った(写真=産経ビジュアル)

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「金正日とか、サダム・フセインとかが監督になったら、ああいうふうになるのかなあ」
「プレーヤーとしては殺されちゃったもんな」
「正日もフセインも、来たら防ぎようがない」

 野球のインタビューにしてはあまりにも強烈な喩(たと)えに、思わず絶句したあとで苦笑するしかなかった。森さんも苦笑していたが、目は真剣だった。つまり、監督が独裁者状態だった、ということだろうか。

「うん。自分の好きなように人を使う。嫌だったら使わない。ほら、なんつうの? 生理的に合わないってヤツはいるじゃない? なんだか知らないけどやだなあ、というのが。そういうことだったのかもしれない。でも、オレだって別に、みんながみんなに嫌われたわけじゃないよ。

 早稲田のときの恩師、森茂雄監督にはずいぶんと育ててもらったし、中日で最初の監督、天知俊一さんはホントに自分を生かしてくれた。もう神様に見えたよ。その次の杉下茂さんのときにも活躍できた。それが、代わった途端にガーンと飛ばされちゃった」

 その時代の中日は監督の選手起用にはっきりと色がついていた、という話を聞いたことがある。濃人監督の場合、プロ野球草創期から内野手として活躍していたが、49年から福岡のノンプロ・日鉄二瀬を率いると強豪チームに仕立て上げた。その実績によって60年、中日の二軍監督に就任し、61年に一軍監督に昇格して以降は"九州勢"と言われていた。

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