一軍出場わずか1試合の男は、のちにソフトバンク黄金期の礎を築く偉材となった (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

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 戦後間もない頃、九州で数多くの社会人チームが切磋琢磨していた時代。石川は「門鉄」で知られる名門・門司鉄道管理局(現・JR九州)の監督を務めていた。スカウトへの転身は、「親分」と呼ばれた南海の名将・鶴岡一人のヘッドハンティングによるものだった。

 鶴岡は自ら選手を探し歩き、補強活動に熱心だった。だが、さすがに単独では全国をカバーできない。そこで各地に有能なスカウトを配置しようと考え、真っ先に九州に置いたのが石川だった。ここに、日本球界では第1号の専属スカウトが誕生した。

 必然的に、石川が監督だった門鉄と南海との間に太いパイプがつくられ、名遊撃手の木塚忠助をはじめ門鉄の主力選手たちが入団。ほかの社会人チームはもとより、高校・大学の隠れた逸材まで丹念に探し歩く石川は、「九州探題」と呼ばれるほど南海に不可欠の存在となった。72年当時で約25年のスカウト経験があったから、小川の潜在能力を見抜いて当然だったのか。

 ともあれ、72年のドラフト会議で小川は5位で指名され、捕手として入団した。契約時から2月のキャンプまで、担当スカウトは新人選手の身の回りをフォローするものだが、石川は小川のことを相当に気にかけていた。

「当時、南海の二軍監督だった穴吹義雄さん。僕は入団前から非常に親しくさせていただいたんですが、それも石川さんのおかげなんです。ある日、穴吹さんのお家に石川さんと一緒に宿泊させていただいて。その時、ふたりの会話のなかで、石川さんが『この子は現役終わってもお兄ちゃんの役に立つよ』と、穴吹さんに話していたのを覚えています」

 将来的に、指導者になり得る素養──。これを若いうちから周りに認められること自体、特別珍しくはないだろう。しかし入団前、18歳にしてすでに見出されていたとは驚かされる。実際、一軍出場は1年目の73年、偵察要員での1試合に留まった小川だが、二軍でリーダーシップを発揮。プロ6年目の78年、24歳の時にはキャプテンを務めていた。

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