松井秀喜は「天敵」を攻略。元巨人スコアラーが明かす名選手たちへの助言と「投手の癖が一番出やすいポイント」

  • 白鳥純一●文 text by Shiratori Junichi

――スコアラーになりたての頃は苦労もされたんでしょうか。

「駆け出しの頃は、相手チームのプレー動画を編集する『ビデオ係』をやり、しばらくして一軍に帯同することが決まるのですが......最初の頃は『なんで選手として一軍経験のないヤツの話を聞かないといけないんだ』と言われたり、試合前のミーティングに選手が来てくれなかったり、といったこともありましたね。

 それをチーフスコアラーだった小松(俊広)さんに相談したら、『選手が耳を傾けるミーティングをしないお前が悪い。選手が知らないようなことを話せばいい』と言われて。それから、より自分の仕事に向き合うようになりましたね」

長らく巨人のスコアラーを務めた三井氏 撮影●立松尚積長らく巨人のスコアラーを務めた三井氏 撮影●立松尚積この記事に関連する写真を見る――何か指針にしたものはありますか?

「打撃コーチをされていた武上(四郎)さんが、『これを読んだら一人前になれる』と水原茂さん(元巨人の選手で、引退後は巨人や中日などの監督を務めた)のメモ、資料を渡してくれたんです。その中には、カウントごとの投手と打者の考え方や、高・低・内・外の4つのエリアを使った基本的な配球の組み立て方などが書かれていました。その論理を基にした考え方を話すようになったら、配球に無頓着だった選手たちも、徐々に私の言葉を聞いてくれるようになりました」

――それによって、バッテリーの配球やリードに変化はありましたか?

「巨人は、特にV9時代(1965〜73年)の頃には『ストレートを投げて、見逃し三振で打ち取るのが美学』と言われていました。ですが、1975年にはチーム初の最下位になるなど、築き上げてきた伝統が裏目に出てしまう場面もあったように感じます。

 チームにスコアラーが加わってからの一番の変化は、それまでは投手と捕手の頭の中だけで組み立てられていたリードが、バッターの反応を見ながら展開されるようになったこと。1990年にヤクルトの監督に就任した野村克也さんが『ID野球』を提唱するようになってから、その傾向はさらに加速していき、スコアラーの活躍の場も広がっていきました」

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