江藤慎一の専属バッティング投手だった大島康徳。打撃練習なのにニューボールを使う決まりごとに驚いた (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 実現に向けて慌ただしく動いたのは、親会社の中日新聞というよりも水原へのパイプが太い中部財界の慶応閥と言われている。セ・パを通じて合計9度の優勝を成し遂げた三大監督のひとり(ほかは鶴岡一人、三原脩)が着任することになり、マスコミはいきなり1954年以来のペナント奪取かと湧きたった。しかし、チーム強化の中長期ビジョンというよりも地元経済界主導というこのリクルートの仕方に早い段階で警鐘を鳴らした人物がいた。

 ドイツ文学者で、この1969年1月にアメリカの作家J、Dサリンジャーの『九つの物語』を翻訳した明治大学教授(当時)の鈴木武樹であった。後にロバート・ホワイティングの『菊とバット』を最初に日本語で紹介することとなる鈴木はプロ野球に対する見識も深く、1968年から『週刊ベースボール』でコラムを連載していた。以下引用である。

「優勝の十字架を性急に負わせるより、むしろ、三年先、五年先を目指す、地道なチームづくりを期待するほうが、水原さんのためになるであろうし、またそのほうがこの球団の永続的な繁栄にとっては望ましいところではなかろうか?」

 コラムのなかで鈴木は中日首脳部と水原が契約などを詰める会談の場に、中部財界人ふたりがついていったことに対して手厳しく批判している。

「あれなど、六十歳に近い人間にたいして非常に失礼な、水原さんを一つの人格として認めない、屈辱を強いるような行為であるのに、それが、あのふたりの名古屋人には、いい年をして、かいもく理解できないというのは、バカバカしいほど滑稽な話ではないか?」

「ちなみに、あのふたりのうちのすくなくともひとりは、中日フアンではなく読売フアン、水原フアンだとのことだ。彼あるいは彼らが、それほどまでにして水原さんを監督にしたいのなら、よくは知らないがあの二つの会社はわりあい大きな会社なのだろうから、自分たちでどこかの球団を買いとり、そのクラブを名古屋にもってきて、自分の好きな人間を監督にすればよいと、わたしは考えるのである」

 大学教授の枠に留まらない鈴木はクイズダービーの初代解答者としてテレビのレギュラー番組を持ったり、革新自由連合から、参議院議員選挙に出馬したりするなかで、プロ野球に関する膨大な知見を発信し続けてきた。

 1968年のドラフトで中日に1位指名された星野仙一は、明治大学の教養課程時に十一号館でドイツ語の指導をした直接の教え子(星野のドイツ語の成績はとても優秀であったという)であるが、巨人に指名の約束を反故にされたということで、報知新聞での座談会で田淵幸一(法政)、大橋穣(亜細亜)らに向かって「俺がいるのに巨人は(島野修という)あんな小僧を(指名しやがって)」「組合でも作ろうぜ」「全員プロ入りをボイコットしてノンプロ行きだ」「ドラフト制度などぶっこわせだ」「おれは巨人にあたった夢を二回も見たんだぞ」と息巻く強気の右腕に対し、「星野よ、よく考えろ」と一喝を下すコラムを書き下ろしている。

 そのなかでは、第二次大戦中のプロ野球興行は敵性スポーツとして官憲の弾圧まで受けながら、敗戦の前年まで公式試合を開催していたという事実を伝え、それがどれほどの危険を伴い、勇気のいったことであるかを星野に説いている。先人たちは「命をかけてまで野球を愛していたのだ。沢村(栄治)、景浦(将)、中河(美芳)ら、野球がしたくても戦争に駆り出されて犬のように殺された選手のことを思え」

 ドラフト制度の在り方について疑義を呈する星野に「このプロスポーツは、ここ数年来、はじめて、十二球団の全体が一つの企業であって、個は全体に従属するものであることを悟りはじめた。この認識を持たなければ、十二球団は共倒れになる恐れが生じたのだ」「プロ野球にはいるということは、高い契約金で、《球団を選択する自由》を売ると考えればよいのだ。だからドラフト制度は《人権侵害》でもなんでもない。もしそうなら、宮沢俊義教授という日本一の憲法学者が、コミッショナー委員長として、それを黙認しているはずがないではないか」と諭している。

 最後には「そして、いつかきみが野球を職業とする人間になったあかつきはそのときは、いくらでも強気の言動をするがよい。―中略―それからもう一つ、プロ野球選手の君の生活を支えてくれる名もないフアンたちには、いつどんなときにも、優しい態度を示すように」

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