ヤクルトの2000年ドラ2位投手、鎌田祐哉が振り返るプロ入り秘話と試練続きだった現役時代 (3ページ目)

  • チャッピー加藤●文 text by Chappy Kato

早稲田大時代に飛躍

 不動産業の話は後述することにして、ここで鎌田の野球人生を振り返ってみよう。1978年11月、秋田市に生まれ、小学校の卒業アルバムには「プロ野球選手になりたい」と記した。名門・秋田高への進学を志望したが果たせず、秋田経法大附属高(現・ノースアジア大名桜高)に入学した。

「秋田高に行けなかった時点で、野球を続ける気はなかったんですが、一緒に進学した中学の野球部仲間が『やろうよ』と熱心に誘うんで......」と野球部に入部。入ったからには一所懸命やるのが鎌田の性格で、3年の夏には控え投手として秋田県大会で登板し、甲子園出場を果たした。

 残念ながら本大会では登板機会がなかったが、甲子園に行ったことで、卒業時は推薦枠で入れる大学がいくつかあったという。しかし鎌田はすべて断り、早稲田大の自己推薦入試に挑戦した。「ひとつ上に受かった先輩がいて、自分もチャレンジしてみようかなと」。学業の成績も優秀だった鎌田は難関を突破し合格、晴れて早大野球部の一員となった。

 早大では1年時から公式戦に登板したが、2年までの通算成績は1勝11敗。せっかく抜擢されたのに、なかなか結果が出せず申し訳ないと感じた鎌田は、ここで一念発起する。

「フィジカル面のひ弱さを痛感したので、筋トレを一所懸命やったんです。当時はまだ、筋トレを真剣にやっている選手は少なかったので」
 
 これが功を奏した。3、4年の2年間で12勝6敗と見違えるような躍進を遂げ、3年時には春季リーグ戦で優勝も経験。さらに2000年開催・シドニー五輪の代表候補にも選ばれた。この時から五輪代表にプロ選手が参加。プロ・アマ混成の強化合宿に呼ばれたのだから、鎌田の成長ぶりが窺える。

「合宿の途中で『ちょっと体力的に厳しいな』と感じたので、監督と相談して代表入りを辞退しました。当時はそこまで欲がなかったんですね」

 オリンピックに出られるチャンスなどめったにないが、自分の力を冷静に見極め、先のことを考えて無理をしなかったところが鎌田らしい。

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