斎藤佑樹が回想する高校1年「野球で挫折した記憶はない。キツかったのは早実の理不尽なルール」 (3ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Sankei Visual

 だから少なくとも2年の時にはこの2人のレベルに追いついておくこと、3年になったら、もうそういう次元で考えるわけにはいかないところまでいかなきゃいけないと考えました。

ハードトレで140キロ到達

 新チームがスタートして、秋の大会で僕は11番をもらいました。背番号1は僕の一つ上の高屋敷(仁)さんでしたが、その時、悔しさは感じませんでした。高屋敷さんの立ち居振る舞い、練習への態度はエースに相応しいと、チームのみんなも僕も思っていましたし、僕は周りから見て「斎藤ってメチャクチャ練習してるよな」と言われるタイプではなかった。練習は必要なだけの量を十分やればいい、という感じでしたから、「オレはエースってタイプじゃないよな」なんて思っていたんです。

 その時も、正直に言わせてもらえば「実力では絶対にオレのほうが勝ってる」とどこかで思っていたのかもしれませんし(笑)、そのうち、このチームのエースには僕がなるんだというつもりで投げていました。その時、僕のマックスのスピードは137キロだったので、140キロを目標にしていました。

 その頃、僕は高屋敷さんと一緒にトレーニングジムに通っていました。2つ上の椚(くぬぎ、泰治)さんという先輩に連れていってもらったのが最初で、横浜高校の松坂(大輔)さんや涌井(秀章)さんがやっていたというサーキットトレーニングをやらされて(苦笑)いたんです。

 16種目を30分以内に終わらせるトレーニングなんですけど、これがやたらキツい。一つひとつの種目をすべて、自分の上げられるフルの重さでやらなくちゃならないんです。しかも、そのキツいトレーニングをしたあと、最後にさらに追い込むトレーニングがありました。

 下半身だけを追い込むメニューで、それをやると、終わったあとの帰りがけ、手すりにつかまらないと階段を下りられないほどです。次の日も筋肉痛で依然として階段を下りられない。筋肉痛が残っている間は投げられないんですけど、1週間くらい、痛みが続きました。あれは本当にしんどかった。

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