甲子園優勝投手から打者に転向した17人のその後<前編>。王貞治やゴルフで大成功した「ジャンボ」など (3ページ目)

  • 津金壱郎●文 text by Tsugane Ichiro
  • photo by Kyodo News

ヤクルトGMも打者として活路

 1969年に三沢高の太田幸司が「元祖甲子園のアイドル」として大注目された翌年、その高校野球人気の波に乗って現れたのが箕島高の島本講平だった。エースで四番として活躍した1970年センバツで全国制覇。その人気をあてこんだ集客力の弱い南海からドラフト1位指名を受けてプロ入りした。

 野村克也監督のもとで1年目のオープン戦まで投手と打者の両天秤に量られたが、結局は外野手となる。その人気は1年目のオールスターゲームにファン投票で選出されるほどだった。ただ、南海ではパッとしないまま5年目のシーズン途中にトレードで近鉄へ移籍。西本幸雄監督との出会いで主軸打者へと成長し、1985年まで現役を続けた。

 その近鉄では、1972年センバツを制した日大櫻丘高のエースも打者に転向している。193cmの長身から「ジャンボ仲根」のニックネームで愛された仲根正広(高校時代は政裕)だ。ドラフト1位で入団した1年目の1973年に登板25試合(14先発)で1勝8敗・防御率4.74の成績を残したものの、その後は右肩痛に苦しんで1979年に打者へと転向する。

 1983年には右翼の定位置を掴んで14本塁打をマーク。その後、星野仙一監督から左の代打の切り札と期待されて1988年に中日へ。ただ、19試合に出場して0安打と結果を残せず、34歳だったこの年かぎりで引退した。引退後は飲食店経営、野球解説者のほか、高倉健主演の映画『ミスター・ベースボール』に出演するなどしていたが、40歳の若さで他界。

 高校野球のターニングポイント「金属バット」が導入された翌年、1975年夏の甲子園を制した習志野高のエースもプロでは打者だった。ヤクルト現GMの小川淳司は甲子園制覇後に中央大に進むも、肩を壊して外野手に転向。河合楽器を経て1981年ドラフト4位でヤクルトに入団した。

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