甲子園優勝投手から打者に転向した17人のその後<前編>。王貞治やゴルフで大成功した「ジャンボ」など (2ページ目)

  • 津金壱郎●文 text by Tsugane Ichiro
  • photo by Kyodo News

スイッチヒッターで才能開花

 ふたり目は、あの「フラミンゴ打法」の御仁だ。2年生エースとして早稲田実業を1957年センバツ優勝に導いた王貞治は、高卒ルーキーながら7番・一塁で開幕スタメンに名を連ねた。

 1年目の成績は94試合に出場して打率.161、7本塁打、25打点。2年目以降はふたケタ本塁打を放つものの、穴も多い打者だった。だが、4年目に中学時代の恩師・荒川博が巨人の打撃コーチに就任したことで覚醒。その後の「世界の王」となった活躍はご存じのとおりだ。

 3人目も巨人の選手で、同じくV9戦士の柴田勲だ。法政二高2年時は豪球投手として鳴らし、1960年夏の甲子園大会で優勝。3年春のセンバツも制して夏・春連覇を達成したものの、3年夏は準決勝で怪童・尾崎行雄(浪商→東映)に延長11回の末に2−4で屈した。

 巨人入団1年目の1962年は、投手として6試合(3先発)に登板して0勝2敗・防御率9.82。その後、強肩俊足を生かすために外野手に転向し、日本初のスイッチヒッターとなった。転向1年目の5月から一番・中堅の定位置を掴んだ非凡さで安打と盗塁を積み重ね、通算2018安打、歴代3位の579盗塁の記録を残して1981年に現役を退いている。

 日本ゴルフ界のレジェンドも、甲子園優勝投手から打者転向のルートを辿っている。尾崎将司(当時は正司)は徳島・海南高で1964年センバツに優勝し、西鉄の入団1年目に17登板(3先発)0勝1敗・防御率4.85を記録した。ただ、下関商から同期入団した池永正明の活躍(1965年は20勝10敗・防御率2.27)と自身を比べ、3年目に打者への転向を決意する。

 しかし、転向した1967年は29試合に出場して42打数2安打。打率.048に終わったことで野球に見切りをつけ、ゴルフに活路を求めた。1970年のプロテスト合格後は『将司』に改名し、プロゴルファー1年目の1971年に日本プロゴルフ選手権で初優勝。日本ゴルフツアー通算94勝、賞金王12回など日本ツアー歴代最多記録を樹立し、「ジャンボ尾崎」の愛称で親しまれる存在となった。

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