板東英二が驚愕した杉浦忠の剛速球。ルーキー江藤慎一は弾丸ライナーで本塁打にした (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 高千穂は東京から西鹿児島(現鹿児島中央)までの1595キロを、東海道・山陽・日豊本線を経由して約30時間かけて走破する最長走行客車である。

 すでに監督の杉下茂以下、東京、名古屋に居を構えるコーチや選手は乗車して客席にいたが、高卒新人など眼中にないのか、酒盛りやトランプに夢中で板東が入っても声さえかける者はいなかった。あいさつをしてもほとんどの先輩に無視をされた。

 列車は広島、山口を経て九州に入った。夜半に何人かの新人が途中から乗り込んで来たが、自己紹介をするわけでもなく、気まずく6人掛けの席で向かい合って座っていた。熊本から、乗り込んで来た男だけが、自分から名乗ってくれた。童顔でトレンチコートを羽織った男は言った。「俺が江藤慎一だ。よろしく頼む」席についてからも車内で年下の選手たちにあれこれと話しかけている。

「あんたはどっから来たんだ?」「ポジションは?」「俺はキャッチャーで......」江藤のこの振る舞いが余程印象に残ったのか、板東はチーム合流時に選手のなかで唯一名前を覚えた選手として先述の著作にわざわざ記している。

 底抜けに明るく、若手芸人にいじられても嬉々として返しを入れる現在のタレントとしての板東からは想像しづらいが、当時は引揚者としての影が色濃く残っており、徳島商業時代もマネージャー出身の玉置秀雄しか心を許せる友人はおらず、いつも孤独のなかにいた。

「私が高校に進学する際に、親父が中学のチームメイトとの約束を反故にするかたちで特待生の徳商に決めてしまいよったんです。貧しさゆえですが、それから『村八分』というのはこういうことかという目に遭わされました。それはもう内地の人に比べたら、みじめなものでした」

 板東たち満州引揚者が入居していたのは、映画『バルトの楽園』の舞台となった鳴門市の俘虜収容所跡の住宅だった。住処のみならず、服装や弁当の格差は残酷なほど存在した。ネタとして語っている「僕が子どもの頃は、イタチと鶏の卵を取り合ったんです」というのは、我慢のできないひもじさ故に鶏卵を農家から、窃取せざるをえなかった境遇ゆえの行状であった。

 史上最高の契約金が入りながらも手元にあるのは、それを管理する父親が小遣いとして渡してきた3万円のみ。大学に進学して国語の教師になりかったという板東にとって野球は生きるすべでしかなく孤独はついてまわっていた。

 そんななかで声をかけてくれた3歳年上の江藤の存在は極めてポジティブなものとしてその目に映った。

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