王貞治が思わずセーフティーバント。中日・中利夫はそこまで追い込んだ

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第23回 中利夫・後編 

(前編「県トップの進学校からプロ入りしたレジェンド」を読む>>)

 オールドファンには懐かしい「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ連載。"ドラゴンズ・レジェンド"のひとりである中利夫(なか としお)さんは、県下ナンバーワンの進学校として知られる群馬県立前橋高校を卒業すると、1955年、中日のスカウトに応じてプロ野球の世界に飛び込んだ。

 高校時代に陸上部の助っ人として国体に出場していたほどの俊足を生かして1年目から一軍に昇格し、2年目には119試合に出場してレギュラークラスの存在感を示す。そして1960年代半ば=巨人のV9時代に、中さんは長嶋茂雄、王貞治というスーパースターたちと打撃タイトルを争うライバルになっていくのだった。

1967年、バントヒットを決める中利夫(当時の名は暁生。写真=共同通信)1967年、バントヒットを決める中利夫(当時の名は暁生。写真=共同通信)

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 巨人の川上哲治、ウォーリー与那嶺に触発されて始めた筋力トレーニングの効果で打力がつき、60年に初の打率3割をマークした中さんも、翌61年から65年までの打率は2割台。1番・センターでレギュラーの座を守り、63年からは高木守道との1、2番コンビが機能し始めたものの、その5年間のうち濃人渉(のうにん わたる)監督、杉浦清監督が続いて就任した時代はチーム内で苦労が多かったようだ。

「あとから考えると、自分の成績が上がらなかったのは、監督との相性もあるんでしょうねえ。当時、濃人さんは"九州勢"、杉浦さんは"中京勢"といわれて、それぞれ選手起用にはっきり色がついていたんです。僕は関東で、名前も真ん中で、中に入って本当に嫌でしたもんね。気分よく野球やれないし。だからよくないですわね、打率。

 その代わり、守りはちゃんとやったですよ。打率は、上がり下がりするのは仕方ないですけど、守りで下がったらいけないですから。で、そのあたりで作ってるんじゃないですか、刺殺の記録は。僕がそれを知ったのはつい最近なんですけどね」

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