闘将・江藤慎一がプロ野球選手になるまで。貧困から名将や名スカウトとの出会い

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 古葉の監督としての原点は濃人であったが、そもそも古葉のプロ入りも濃人が大きく関与している。濟々黌高から、専修大学に進んだ1年目の夏休み、熊本に帰省して母校の練習を手伝っていた古葉のプレーを見た濃人が「もしもプロに行きたいのなら、二瀬に来い。自分がその希望をかなえてやる」と誘ったのである。

 古葉は都市対抗で活躍していた九州の名伯楽にすでに心酔していた。「濃人監督に鍛えていただいたら、自分でも絶対にプロにいけるという気持ちがあったんです。だから、僕は大学をすぐ辞めてしまいました。濃人さんのチームにとっていただけたのなら、必ずプロの選手になれると信じていたのです」

 インタビュー中も終始古葉は、亡き濃人に対するきれいな敬語を崩さなかった。事実、二瀬で名ショートとして名を上げた古葉は2年後にカープ入団が決まる。

 そして古葉の1年下で同様にプロ入りに向けて鍛えられたのが、江藤であった。古葉は江藤をどう見ていたのか。

「済々黌高校時代から、1学年下の江藤君のことは知っていました。やっぱりバッティングが他の選手と違っていました。型をしっかり持って、上だけでなく下半身、足を使ってラクに腕が振れるようにというのが大事ですが、それができていました。弟さんたちを大学に行かせるために自分はプロに行くんだというようなことを言っていました」

 かく言う古葉もまた弟の学費を払うためにプロを志したという経緯がある。昭和30年代は家族を養うためのプロ野球だった。

「私や江藤をプロに行かせるために濃人さんの練習は確かに厳しかったです。お前たち、全体の練習が終わったらノックをするぞ、100本だ、俺が打ってからスタートせえ、と言われて始まるんですね。こちらは100という目標に向けてボールに飛びついていく。それで終わると思って力を出しきるんですが、そこから400本続いて結局、500本になるんです。

 そこまでくると、小手先ではなくて全身の力がいる。ヘトヘトになるんですが、つまりはプロとして試合に出続ける体力をつけろということだったんですね。社会人と違ってシーズン中はほぼ毎日ゲームがある。プロは試合に出てなんぼの世界です。せっかくレギュラーになれる技術があってもすぐにバテていては使われなくなる。あの世界に飛び込む以上は、1年目から使われ続けるようになって行けということでした」

 濃人が好んだ練習に "無休止符"というものがあった。これはアップに始まり、現在では見られなくなったウサギ跳び、6キロランニング、素振り、ノックと続くのだが、この間、ボタ山から炭塵が舞い降りるグラウンドでは、一切のインターバルがなく続けられる。練習が終われば満足に歩くこともできないというメニューが組まれ、完全燃焼した選手たちは目と鼻の先の新町遊郭に遊びに行くどころではなかった。

 一度、合宿所に引き上げてきた新人選手が階段を二段ずつ軽快に上がるのを見た濃人は、「まだそんな元気があるのか!」と集合をかけて、動けなくなるまで追加練習を施したことがあった。とにかく全力を出しきって1日を終えろ、余力を残すなという教えであった。

 社会人からプロに入った以上は、結果が出なければ解雇はすぐそこにある。初年度は身体作りという悠長なことは言わず、1年目から勝負という濃人の信念は後の権藤の起用を見てもわかる。

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