なぜ巨人に移籍すると輝けないのか? 経験者が語る「ジャイアンツでプレーすることの重み」

  • 中島大輔●文 text by Nakajima Daisuke
  • photo by Kyodo News

 はらわたが煮えくり返った中尾氏だが、その場はグッと堪えた。しかし感情を抑え切れず、試合後、星野監督の前で不満を吐露した。

「コーチの指示どおりにリードをして、打たれたら文句を言われました。このコーチの下で、僕はもうキャッチャーをできません」

 中尾氏は入団7年目から中日の正捕手を務めてきた一方、11歳下の中村武志がちょうど台頭してきた頃だった。チームにとって世代交代のタイミングでもあり、中尾氏は翌年からレフトを守ることになった。

「暇で仕方なかったです。(自分にとって)レフトは面白くもなんともなかった。体力的にも精神的にもラクだけど、オレの性に合わねえやって(笑)」

 そして1988年オフ、トレードで巨人へ行くことが決まる。星野監督が諸々の事情を察し、新天地へ送り出してくれた。

 対して巨人には、正捕手を務めてきた山倉和博が故障もあって出場試合を減らし、藤田元司監督はライバルを加えて刺激を与えたいという狙いがあった。そうした状況で加入した中尾氏は1989年の開幕マスクを任されると、伸び悩んでいた斎藤に内角攻めの必要性を説いて一本立ちさせるなど、日本シリーズ優勝に貢献。7年ぶりにベストナインとゴールデングラブ賞に選出された。

 以降は故障もあって出番を減らし、1992年途中、大久保博元とのトレードで西武へ。1993年限りで現役生活に終止符を打った。

 その後、指導者やスカウトとして西武、台湾球界、阪神などを渡り歩いた中尾氏は、「名門」と言われる球団と"それ以外"との違いをたしかに感じたという。

「西武では、レギュラー以外のメンバーがすごく練習していました。だから若い選手たちが頑張ろうとする土壌があったと思います。逆にジャイアンツや阪神は、若い選手が甘やかされるような環境でした。たとえファームの選手でも周りからちやほやされるし、野球道具も全部提供してもらえる。もちろん本人たちは努力しているけど、どうしても周りにもてはやされるので。他球団とは"外"の目が違うことも、若手が伸びにくい要因にあるのかもしれません」

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