村上宗隆の100本塁打達成で思い出すルーキー時代の清原和博。黄金時代の西武がその才能を開花させた (2ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Kyodo News

【「ダイヤモンドの輝き」を誇る清原に対する森祇晶の期待】

 入団時から「ゴールデンルーキー」として注目を集め、ルーキーイヤーとなる1986年にはシーズン31本塁打、打率.304、打点78を記録した。5月初旬まではまったく結果が出ない日々が続いたが、それでも森監督は清原を起用し続けた。その理由について、『覇道 心に刃をのせて』(ベースボール・マガジン社)では、次のように振り返る。

「プロ野球で成功する選手は2種類のタイプがある。ファームで鍛えに鍛え、一軍に這い上がるタイプ。たとえていえば、路傍の石を磨いて宝石になる選手である。もう1種類は持って生まれた天性の輝きがあるダイヤモンドのような選手。清原の場合は、まさしく後者である。常に表舞台で光り輝く雰囲気を持った選手だった。

 裏を返せば、ファームに落ちてどん底から這い上がってくるタイプではないと思った。何よりも、ファームに落ちてダイヤモンドの原石が光を失うことを私は恐れた」

 こうした森の考えが、広岡にとっては「腫れ物に触るような扱い」と映ったのかもしれない。しかし、森には森の考えがあり、結果的に清原は入団一年目から好成績を残すこととなったこともまた事実であった。

 さらに森は、天性の輝きを持つ「ダイヤモンドのような」清原に対して、スパルタ教育も施している。『監督の条件、決断の法則』(講談社+α文庫)では次のように、その「指導哲学」を開陳している。どんなに不振でも、決して四番から降格させなかった理由だ。

「それでも清原は代えなかった。こうなると我慢比べだ。打順を下げるのは簡単だが、それでは本人に逃げ場を与えることになる。あくまでも自分で自分を助ける気持ちを持って解決することだ。苦しんでいるのなら立ち直るきっかけは、自分でつくらなくてはならない。自分を本当に助けるものは自分しかいない。手助けできない監督としては、彼を4番に据え続けることで、主力としての自覚を待ち続けさせるしかなかった」

 たとえどんなに不振であっても二軍に落とすことはせず、どんなに結果が出なくても、四番の重責を担わせ続ける。やはり、森には森の考えがあったのだ。

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