2021.09.13

阪神の編成部長となった根本陸夫信者の最初の大仕事は「24人戦力外」の血の入れ替えだった

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

「まず『辞めてきました』と言ったら、『やっぱりなあ』って言われて......。それでいきなり人差し指を1本こっちに向けて、『これくらい、アメリカ行ってくるか?』って言われたんです。1カ月かと思ったら、1年(笑)。そういう仕事を探してくれようとしてたんですね。でもその時は、大阪で新聞の評論家とラジオの解説が決まっていたので、お断りしました」

 ネット裏から野球を見る、"第三の人生"が始まったのが92年。根本が田淵に替わってダイエー監督に就任し、球団専務を兼任するのが同年オフ。不思議な巡り合わせを感じずにはいられないが、それから6年後、黒田は野村克也と再会を果たす。南海時代に監督として仕え、捕手としてライバルだった野村が阪神監督に就任。バッテリーコーチとして招聘されたのだ。

「阪神に入って2年目の終わりの頃、アメリカに行ったんです。球団とノムさんから『来年のために選手を見つけてきてくれ』と言われて、1カ月ぐらい通訳とバッティングコーチ補佐だった長嶋(清幸)と一緒に。それで帰ってきたら野村さんにこう言われたんです。『オーナーから言われてるんやけど、来年、編成をやるか、ヘッドコーチをやるか、今のコーチを続けるか、3つのうち1つ考えといてくれや』と」

 阪神も野村も、その能力を認めていたのだろう。いずれにせよ、実質GMの根本に薫陶を受けていた黒田が同じ道を歩むのも必然かと思えるが、本人は悩んでいた。

「ノムさんと監督付の広報担当と3人で食事するたびに、ノムさんから『おまえ、どうするねん』と。その時、根本さんだったらなんて言うのか考えてみました。そしたら『おまえもそういう仕事が向いてるから、編成やれ!』っていう言葉が聞こえてきたんです」

 時に黒田が阪神に入って2年目の2000年。根本はその1年前の1999年4月30日に逝去したのだが、悩んだり、迷ったりした時は生前と同じように心のなかで相談してきたという。まさに、「根本信者」と呼ばれる由縁がここにあるのだろう。アマも含めた野球界に数多いる根本信奉者で、ここまで信じて仰ぎ見る者はいないのではないか。