2021.07.22

夢も希望もなかった17歳の帰宅部員は、4年後に球界を代表するスピードスターとなった

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • photo by Sankei Visual

 高校1年の夏。和田は高校野球・埼玉大会のテレビ中継を見ていた。幼馴染の久保を応援するためだ。

 久保はスポーツ推薦で山村国際に進学。1年生にして背番号15をつけ、夏の大会でベンチ入りしていた。山村国際の初戦は埼玉大会の開幕戦に組まれ、しかも相手は名門・花咲徳栄。野球から離れていた和田ですら「すごくいいピッチャーがいる、優勝候補だと聞いていた」と認識していた。

 花咲徳栄が相手に決まった日から、山村国際の選手たちは燃えていた。久保は当時を振り返る。

「勢いだけは負けないようにしようと、試合中もみんなベンチの前に乗り出して声を出していました。とにかく試合があっという間に進んでいった記憶があります」

 山村国際は花咲徳栄を相手に2対1と金星を挙げる。時折、テレビ画面に控え選手ながらベンチで声を枯らす久保の姿が映し出された。和田にとってはまぶしい光景だった。

「僕からしたら、花咲徳栄を相手に試合しているだけでもすごいのに、勝っちゃうことに心を打たれました。ベンチに入って強いチームを倒す経験ができた翔大がうらやましかったですね」

 また野球がしたい──。和田の心の奥底から、そんな感情が湧き出てきた。

 とはいえ、「高校野球をやる選択肢はなかった」と和田は言う。当時の高校野球部の活動内容では、本格的な野球は経験できないと判断したからだ。そこで和田の選択肢に浮上したのが、社会人野球のクラブチームだった。

 社会人野球は会社登録チームばかりがクローズアップされるが、一方でクラブ登録のチームもある。同じ地域や出身校などを背景に選手が集まり、硬式野球をプレーするのだ。そこで和田は「父の仕事仲間が昔やっていた」という都幾川倶楽部硬式野球団への入部を決めた。

「埼玉のなかでも強いチームでしたし、甲子園経験者が何人もいて、話を聞いてみたいと思ったんです」

 その「甲子園経験者」のひとりが、当時33歳のベテラン内野手・北堀学だった。北堀は聖望学園で1999年夏の甲子園に出場。ともにクリーンアップを組んだのが、鳥谷敬(ロッテ)である。拓殖大でもレギュラーだった北堀は、18歳も年下の和田に対してこんな印象を抱いた。

「全部ムダに全力でやるヤツだな」